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私の主張

バックナンバーは、左の「私の主張(既掲)」から御覧ください。

行政監視委員会New!(5月19日)

 1月冒頭召集された通常国会当初から、私は、行政監視委員長を拝命していますが、どのような委員会であるのか御説明申し上げ、併せて参議院の委員会制度について解説したいと思います。

 行政監視委員会については、国会法第41条第3項第15号により常任委員会として位置付けられ、参議院規則第74条第15号により所管事項として@行政監視に関する事項、A行政評価に関する事項及びB行政に対する苦情に関する事項が規定されています。法制的にはそうなのですが、この「行政監視」という規定の下、行政一般を審議することができることとされ、実質的には所管事項のないオールマイティな特殊な委員会となっています。すなわち、行政に関することであれば何を議論してもいい委員会なのです。

 何を議論してもいいという意味では予算委員会と同じなのですが、予算委員会は予算案の審査という建前があり、内閣総理大臣に対する質疑ができる点が異なっています。決算委員会も、同様であり、決算の審査という建前があります。これに対し、所管事項がないゆえに行政に関して何を議論してもいいのですが、他の委員会との最大の違いは、そのため審議する議案もないことです。議案とは予算案とか法律案などのことをいい、それらが行政監視委員会に上程されることはなく、委員会で議案の採決が行われることもありません。

 各回の行政監視委員会でも、実質的な議題が定められることは少なく、いわゆる「一般質疑」が行われ、運用上も何を質問してもいいこととされています。それでは、所管も、議案も、議題もない全く権限のない委員会のように感じられるかもしれませんが、行政監視委員会には、一般質疑のため内閣総理大臣以外の国務大臣に対し任意に出席を求めることができるという大きな権限があります。個々の質問者の判断で質疑のためどの大臣でも任意に呼べるのは、決算委員会の全大臣を対象とした総括質疑を除けば、予算委員会と行政監視委員会だけなのです。

 そういう意味で行政監視委員会はスーパー委員会なのですが、議案を取り扱わないがゆえに国会日程上議案を取り扱う他の委員会の開催の方が優先されるので、なかなか開催できないという大きなデメリットがあります。行政監視委員会が設置された当時は、参議院を正に議論の府とする目標の下、一国会で十数回開催されたこともありましたが、最近の厳しい国会日程の中では多くても通常国会で3、4回の開催に限られています。野党からはもっと多く開催すべきであるという要望がされており、ごもっともな御意見だと考えますが、国会日程上なかなか難しいのが現状です。できるだけ多くの開催に努力していかなければならないことは、言うまでもありません。

 参議院の委員会には、常任委員会、特別委員会、調査会及び審査会があります。常任委員会は第1種と第2種に分かれ、第1種常任委員会とは、内閣委員会、総務委員会など各省庁を縦割りで所管する委員会のことをいい、現在11委員会が置かれています。これに対して、第2種常任委員会とは、それ以外の常任委員会をいい、縦割りの第1種常任委員会に対し横割りを所管する予算委員会、決算委員会、行政監視委員会及び国家基本政策委員会があります。このうち国家基本政策委員会は、党首討論を行う委員会であり、衆議院と共催されます。このほか、第2種常任委員会には、議院の運営を所管する議院運営委員会及び懲罰委員会があります。懲罰委員会は、懲罰事案がなければ開催されません。

 特別委員会は、各会期ごとに本会議の議決により設置されるものであり、常任委員長が本会議で選挙される(実際は、議長が指名する)のに対し、特別委員長は委員の互選により選任されます。現在災害対策特別委員会など7特別委員会が置かれており、会期ごとの設置手続はとられていますがほぼ恒常的に置かれており、所管事項については議案審議も行います。調査会は、参議院独自の制度であり、任期の長い参議院で長期的な政策を検討するために設けられたものであって、議案の審議は行いません。現在、国の統治機構に関する調査会など3調査会が置かれています。そのほか、憲法審査会、情報監視審査会及び政治倫理審査会の3審査会が置かれており、それぞれ特別な事項を審議する委員会とされています。

 委員長ポストは、ドント式で野党にも配分されますが、議院運営委員長及び予算委員長は、必ず与党議員が務めます。議院運営委員長は、院内では議長、副議長に次ぐ地位にあるものとされ、筆頭委員長の格付けがされています。予算委員長は、長老議員が務めるのが慣例であり、別格の扱いです。その他の委員長に上下はありませんが、最近の参議院自民党の人事では、特別委員長には若手を抜てきする傾向があり、第1種常任委員長には党の部会長経験者クラスが充てられています。予算委員長を除く第2種常任委員長には、中堅幹部クラスが充てられます。調査会長や審査会長には、ベテラン議員が充てられます。

 常任委員長は、参議院の役員であり、他委員会でも質問できない先例となっています。そのため、私も、総理補佐官退任後も質問させてもらっていません。どうぞ、御理解ください。

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集団的自衛権を巡る違憲論議について(4月4日)

 元最高裁判所判事の藤田宙靖(ときやす)東北大学名誉教授が、自治研究2月号に「覚え書き―集団的自衛権の行使容認を巡る違憲論議について」と題する論文(以下「藤田論文」といいます。)を発表し、話題となっています。その趣旨とするところは、憲法学者による違憲論議が必ずしも十分に尽くされてはいないのではないかというものです。
 私も、昨年、このホームページに、「かみ合わぬ憲法論」(1)〜(3)を掲げたところであり、また、藤田論文にも私の名前が何度か引用されています。大変分かりやすい論文ですが、なお一般の皆さんには難しい点もあるので、私見を交えながら要約させていただきたいと思います。

 平和安全法制について、衆議院憲法審査会の参考人質疑で長谷部恭男教授が「違憲と考える」と述べて以来、憲法学者らによる違憲論議が高まってきましたが、藤田論文では、「必ずしも、一貫した精緻な議論が展開されているようには感じられない。」としています。それは、「法規範論理上のルール(公理)を明確に踏まえた上での理論的展開が、必ずしもなされていないから」であると述べています。

議論の出発に置かなければならない法解釈論上の「公理」

 「公理」とは、第一に憲法の解釈も法解釈の一つであり、「法解釈である以上、仮に従来のそれが誤ったものであるとすれば、それを正しいものに改めるのは当然」であること、第二に「国家機関が法を適用するに当たっては、先ずは、自らが適用する法の内容の確定が必要であって」、明確な最高裁判例がない場合は「差し当たり、自らの解釈するところによらざるを得ない」こと、第三に「憲法法規の内容について、国家として最終的な判断権を持つのは最高裁判所であって、他の国家機関による解釈は、その意味において、国家の判断としては暫定的なものである」こととしています。
 「このような理論的枠組み自体は、何ら「立憲主義」に反するものではなく」、安倍政権が「なんら憲法違反はないと主張するのも、まさにこのような理論的根拠があるからである」としています。

「公理第一」に関して

 まず、上記公理第一について、違憲であるとする見解が、「憲法によって縛られる政府が、自らの手によって従来の憲法解釈を変更するのは、立憲主義に反する」と主張しているが、「それだけでは余りにも粗雑である」としています。「従来の説明を見る限り、「法的安定性」が最も重要な論拠とされて」いるが、「具体的にいかなる要請なのかが、より一層明確にされるのでなければな」らないとしています。
 長谷部教授の「従前の「政府解釈」を一内閣が勝手に変更することは、「法的安定性」を害するとし、この「法的安定性」の意味につき、「政府解釈」に対する信頼が揺らぐ」という発言の意味については、3通りの理解の仕方が考えられるとしています。

 @ 「政府が一度憲法解釈を示すや、そのこと自体によって直ちにその不可変更的効力が生ずる」という意味です。しかし、例外的に「事情変更の法理」が認められており、「およそ如何なる状況の下でも一切の変更も許されない、ということをいうためには、それを正当化する更なる論拠が必要である」としています。
 A 従来の政府解釈は、「長期にわたって広く承認され、それに基づき、現実にも法的・社会的に一定の秩序が形成されてきた」という意味です。しかし、「従来の解釈が前提として来た状況と全く異なる状況が出現した」場合において、「ただこれまでの積み重ねがあるからというだけで、従来の解釈を変更することが許されないと言えるかという問題がある」としています。私の「『法的安定性は関係ない。国民の安全確保が問題なのだ』という」発言は、「理論的にはまさに、そこのところを衝くものだ」としています。
 B 「違憲の理由として「法的安定性」が主張されるとき、実はそこでは、「従来の解釈」こそが内容的に正しく、政府による「新解釈」は誤りであるという実体的判断が、既に前提とされている」という意味です。そうであれば、「結局、旧解釈は誤った解釈であると言えるかという…問題に帰結することとなる」としています。

「公理第二及び第三」に関して

 上記公理第二及び第三について、藤田論文は、「「憲法の番人である法制局が従来の憲法解釈を変えることは許されない」という主張には、法理論的な根拠が見出せない」としています。法制局は、「単なる内閣の補助機関であるに過ぎない」からです。
 また、憲法解釈の変更は、「本来よるべき憲法改正手続を回避するための便法であって、権限の濫用であり、それ故に違法・違憲であるといった主張がある」が、「権限の「濫用」は違法であるということは一般的に言えても、何がそこでいう「濫用」に当たるかは、かなり精緻な議論を必要とする問題なのであ」り、今回の閣議決定についても、その違憲性を「経緯からのみ「権限の濫用」と断ずるのは、規範論理的にはいささか粗雑に過ぎる議論であると言わざるを得」ないとしています。

閣議決定並びに法案の内容の合憲性について

 以上を前提として、藤田論文は、「今回の事態を巡る憲法問題は、結局のところ、集団的自衛権の行使を容認する閣議決定及び法案の内容自体が憲法の正しい解釈と言えるか否かという、実態法上の問題を抜きにしては、論じ得ない」としています。そこで検討されなければならないのは、政権のいう憲法解釈の「変更」の意味であり、3通りの考え方があり得るとしています。

 @ 「集団的自衛権の行使は認められないとする旧解釈は、憲法9条の解釈としてはそもそも間違っていたので、改めて正しい解釈を行う」というものである。
 A 「旧解釈は、かつては正しいものであったが、現在では状況の変化により誤ったものとなったので、新しい状況に適合した解釈を新規に行う」というものである。私の「『法的安定性は関係なく、実効的な安全保障の問題なのだ』という発言は、まさに、この論理構造を前提としたものと理解することができよう」としています。
 B 「旧解釈は、現在でも基本的に誤ったものであるとは言えないが、現在の状況により即したように、その内容を一部解釈し直す必要がある」というものである。これは、「「憲法の内容」について新解釈が行われたのではなく、「憲法の内容についての解釈」についての新解釈が行われたのである」としています。

 私の主張はAに該当するとし、AとBの違いはいささか微妙な感じを受けますが、私の主張の趣旨は、「自衛権の行使は必要最小限度にとどまらなければならないという憲法解釈は、今日の平和安全法制に至るまで戦後一貫して変わっていない。しかし、何が必要最小限度であるかということは、国際情勢の変化に伴って変わるものであり、そこは「法的安定性」の問題とは直接関係ない」ということであり、政府が「解釈の当てはめの変更」という言い回しで答弁していることと平仄が合うものであって、必ずしもAではなく、Bに近いのではないかと考えます。

 藤田論文は、以上の分類をした上で、「上記三つの論点が明確に区分されることなく、雑然と議論されているように見受けられる。そのために、双方の議論はすれ違い、いわば政府・与党の「言い抜け」にも利した感がある。」としています。

 また、「自民党(特に高村副総裁)及び政府は、結局のところその理論的根拠を唯一最高裁砂川判決に求める結果となっているが、これが全く的外れの議論であることは、既に多方面からの指摘がなされているところである」とし、藤田論文はこれを支持していますが、この点は、私たちの主張の趣旨がきちんと伝わっていない点でしょう。

 私は、ツイッターなどで、「高村副総裁は、集団的自衛権の容認の根拠が砂川判決にあるとは言っていない」としてきました。すなわち、砂川判決は、「我が国の存立を全うするため必要な自衛のための措置は、国家固有の権能」であると断じましたが、「自衛のための措置」の内容については具体的に示さず、政府においてその解釈が担わされてきたのです。その解釈を具現化したのが集団的自衛権の行使を容認しなかった昭和47年の政府見解であります。
 今回は、国際法上「集団的自衛権」と呼ばれるものの中にも「自衛のための措置」と言えるものが、極めて限定的な状態、すなわち我が国の存立を脅かす明白な危険がある場合に限ってあり得るという見直しを行ったのです。従来「自衛のための措置」の解釈は政府が担ってきたものであり、砂川判決に戻って集団的自衛権の根拠を求める必要はないのです。藤田論文にあるように「砂川事件判決が「集団的自衛権の行使」を「排除」していない」ことで十分なのです。

 また、藤田論文は、「旧解釈が、政権が主張する国際的安保環境の変化により、憲法9条について「誤った解釈」であるというほど現状不適格のものとなったか否かが問題とされなければならない」としつつ、「この辺りの判断は、基本的に、国際政治論の分野の問題であり、安全保障政策の在り方に関わる問題であって、そのような問題の適否を法律学の分野で、果たしてまたどのような形で取上げ得るかということは、それ自体、充分な検討を要する困難な問題である」とも指摘しています。
 そこで、究極的に重要な問題は、「「旧解釈」を誤っているとして基本的に放棄することはしないが、現状においては、これに部分的な修正を加えることが適切である」という考え方の適否であるとしています。その上で、「旧解釈」の「基本的躯体を残した上での部分的修正に過ぎない」と言えるか否かに問題の枢要はあるとしています。

 安倍政権が従来の政府解釈を変更しつつその大枠から離れるものではないと説明しているのは、「「集団的自衛権」の行使は、我が国の平和と安全を守るために必要最小限のものに絞られているから」という理由によるものであるが、自衛権発動の三要件の中で「必要最小限度」を定めた第3要件は「武力行使の程度に関わる要件であって、自衛権発動の前提条件に関わる要件ではな」く、第1要件である「「我が国に対する武力攻撃が発生した場合」に限られるということを、厳密に考え、そこに一ミリたりとも例外は認めないという考え方を前提とすれば」、「従来の解釈との間には、単に量的な差異ではなく、理論的に質的な差異が生じていることになる」としています。

 指摘に間違いはないのですが、昭和47年の政府解釈においても、「必要最小限度」という用語は、第3要件のみでなく、自衛権発動の三要件全体を包含する意味においても用いられており、ややこしいのですが二段階で同じ用語が用いられているのであって、政府が憲法解釈上重要視しているのはむしろ後者の方であり、論者の中にも勘違いがあるのではないかと思われます。

 結論として、藤田論文は、「政府・与党の「新解釈」も、憲法9条の下、集団的自衛権の行使は許されないという原則を全否定しているわけではなく、ごく限られたケースにおいては、その可能性も排除されるわけではない、という論理に立って」おり、「およそ理論的に「質的な連続性」を欠くものと決め付け得るか否かという問題は、なお残されている」としています。
 さらに、「「自国に対する直接の武力攻撃は無いが、自国と密接な関係にある外国に対する武力攻撃がなされていて、それが実質自国に対する武力攻撃と同じ意味を持つような場合であるとか、自国に対する武力攻撃が引き続き起こることが確実であるような場合に行われる武力行使」については、どう考えれば良いのか、という点は、非常に微妙な問題となることを否定できない」としています。

 その上で、新解釈に否定的な識者の中にも新解釈について「集団的自衛権の行使を認める場合でも、その範囲は非常に狭く限定的な事態において行使が認められたにすぎない」と読めると指摘しているものもあるが、国会答弁を前提として考えると「新三要件というのは、現実にほとんど制限的効果を果たさない」という批判があることも紹介しています。また、「「憲法の枠内での法整備を実現させるためには、提案者の発言から独立して、法案の文言を緻密に分析することが必要だ…」という指摘は、…極めて重要であるように思われる」としています。

結びに代えて

 結語として、藤田論文は、「仮に憲法学がなお法律学であろうするならば、政治的思いをそのまま違憲の結論に直結させることは、むしろその足下を危うくさせるものであり、法律学のルールとマナーとを正確に踏まえた議論がなされるのでなければならない」としています。この言葉が法律学会に大きな波紋を与えています。

 私も、藤田教授の勇気ある発言に大きな感銘を受けました。もちろん、藤田教授と憲法の解釈論において完全に一致しているわけではありません。しかし、平和安全法制を巡る憲法論、なかんずく集団的自衛権の合憲性の議論が、立場の違いや結論の可否は別にしても、全くかみ合っていないと感じていたところであり、その点を法律学の専門家の立場から明確に分析いただいたことは、天啓を得たような感動を覚えました。この論文は法律学の専門家に向けて書かれたものであり、なお一般の皆さんには難解の部分もあると考えましたが、その意味からあえて紹介させていただきました。

 以上、私の意見に係る部分は個人的見解であり、政府及び自民党の正式見解とは関係ありません。

 かみ合わぬ憲法論(1)
 かみ合わぬ憲法論(2)
 かみ合わぬ憲法論(3)

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表現の自由と放送法(3月24日)

 表現の自由は、憲法が保障する基本的人権の中でも最も重要なものです。それは、人類が幾多の困難を乗り越えて獲得した民主主義を堅持する上で、言論の自由を保障することが極めて重要だからです。そのため、新聞には、戦前のようにそれを規制する法律はなく、所管官庁もありません。

 しかし、新聞が何を書いてもいいわけではありません。人権の行使は、憲法の定める「公共の福祉」に沿うものでなければなりません。新聞でも、「事実無根」のことを書いたり、人を「誹謗中傷」したりすることはできません。くわえて、民法の規定する「公序良俗」に反してはなりません。逆から言えば、こういうことがなければ、新聞は何を書いてもいいのです。万が一こういう原則に反しても、それを行政的に規制する方法はなく、人権を侵害された人は民事訴訟による救済に訴えることになります。

 これに対し、放送には、放送法という行政法上の規制が掛かっています。放送は電波を用いますが、そのためには一定の周波数帯を放送局が独占的に使用することが必要です。周波数帯は限りがあることから「公共財」と考えられており、放送事業は、国の特別な許可を得て行う「特許事業」とされ、放送法という行政法の規制の下に置かれているのです。そこで、放送は、新聞と異なり、「政治的公平性」が求められているのです。

 しかし、このことは、世界共通のことではありません。放送事業の多チャンネル化が進んでいる国では、この「政治的公平性」を解除しようという動きがあるからです。これも一つの考えであると思われますが、我が国の国情に合うものかどうか十分な議論が必要です。仮にそうするというのであれば、きちんと放送法を改正し、放送には「政治的公平性」が担保されていないことを明らかにすべきでしょう。

 放送法第4条第1項各号に政治的公平性等を求める放送番組の編集準則が定められており、そこで「政治的公平性」を求める観点から、「政治的に公平であること。」「報道は事実をまげないですること。」及び「意見が対立している問題については、できるだけ多くの角度から論点を明らかにすること。」が規定されています。この規定について、BPO(放送倫理・番組向上機構)は法規範ではなく「倫理規範」であるという意見を述べていますが、法治国家の観点からとても容認できることではありません。総務省は、同項の規定は「法規範」であることを明確にしています。法規範であるとしたら表現の自由を定めた憲法に反するというおかしな意見がありますが、基本的人権の行使は公共の福祉に反してはならないこともまた憲法の定めるところです。

 たしかに、放送法第3条は、「放送番組は、法律に定める権限に基づく場合でなければ、何人からも干渉され、又は規律されることがない。 」と規定し、放送番組編集の自由を定めていますが、「法律に定める権限に基づく場合でなければ」とも規定しており、公権力からいかなる規整も受けないことを定めたものではありません。他方、放送における報道の自由はできる限り尊重すべきであり、それぞれの放送局の自律によって放送番組の編集準則が遵守されることが基本であります。そして、放送局が自主的に共同設立したBPOにおいてそのことが担保されるのも、適切な仕組みであると考えます。

 しかし、放送局の自律だけでは放送番組の編集準則が遵守されない場合も、あり得ないわけではありません。放送局は、東京や大阪のキー局ばかりではなく、各都道府県にローカル放送局があり、ラジオ局まで入れればかなりの数があります。万が一放送局の自律的手段によって「政治的公平性」が守られず、放置し得ないような余程の事態が生ずれば、放送法の所管官庁である総務省は、法治国家として当然行政的な規整を行わなければなりません。その最初の手段としては、強制力のない「行政指導」を行うことになるのでしょう。放送法に行政指導の根拠規定がないのにけしからんと勘違いしている人がいますが、行政指導は、行政手続法の規定に基づいて行われるものであり、放送法の規定に基づいて行われるものではありません。

 野党の質問に対して総務大臣が一般論として法律の建前を答弁し、放送法違反の場合は電波法に基づく「停波もあり得る。」と述べたものですから、物議を醸しています。今述べたように、「政治的公平性」は基本的に放送局の自律によって遵守されるべきものであり、それでも守られない万が一の余程の事態が生じたときには、まず「行政指導」で対応すべきものなのです。期限に付きにせよ、停波というのは、放送事業者の息の根を止めることになりかねないものですから、通常あり得ることではありません。万万が一そういうことがあり得るとすれば、十中八九の人がそれを肯定する異常な放送事業者に対するものに限られるでしょう。放送事業者となるには厳しい審査があり、常識的にはそういうことはあり得ないのですが、法律の規定は万一の場合にも備えておかなければならず、建前としては行政処分もできることとされています。

 中央省庁再編を行った橋本行革の時に、放送行政の管理については第三者機関として電波監理委員会を設置すべきではないかという議論がありました。それも一つの考えであり、そこに現在のBPOのような仕事を委ねることも考えられます。しかし、そうなると、政治から独立した第三者性は担保されるものの、公権力による放送の管理が前面に出ることにもなりかねないので、慎重な検討が必要です。

 「政治的公平性」の話をすると、すぐに「政府の批判はマスコミの使命である。」という人たちがいます。そのとおりです。「政治的公平性」とは、放送法に定めるとおり「意見が対立している問題については、できるだけ多くの角度から論点を明らかにすること。」であり、国論を二分するような政治的課題については賛否両論を公平に伝えなければならないということなのです。「政治的公平」にとって、この賛否両論があるという事実を公平に伝えることが一番重要なことなのです。実際の放送には、政府の主張をきちんと伝えないで、批判だけしているものがたくさんあります。

 賛否両論を公平に伝えた上で、政府の主張や理屈付けがおかしいと考えるのならば、それを批判することは、放送でももちろん許されます。「政府を批判するのはけしからん。」などと愚かなことは、誰も言っていません。しかし、それを越えて、例えばニュースキャスターが「法案廃止のための国民運動を起こしましょう。」とまで言えば、やはり放送の「政治的公平性」が遵守されているとは言えません。「特定の立場を放送事業者が支持することは、当然あり得る。」としているものがありますが、私は、「支持」というのは、賛否の表明を越え、「政治的同調」を意味する言葉であると考えます。その間に「政治的公平性」の重要な境界線があることは、主張しておきたいと考えます。

 繰り返しになりますが、国論を二分するような政治的課題について、「政治的公平性」が求めているのは事実として賛否両論を公平に報道することであり、その上で賛否両論に対して批評を加えることが放送事業者に許されないわけではないのです。論理としての批判は全て許されるのであって、それが政治的色彩を帯びることが問題なのです。識者の中には、このことを勘違いしている人が多いように感じます。さらに、こうした話と行政機関による「行政指導」や「行政処分」の実施の話とは、相当かけ離れたものであることを付け加えておきます。放送事業者に求められる「政治的公平性」の話と、行政機関の「行政処分」の話を直結して議論しようというところに、大きな誤解が生じています。

 いずれにせよ、民主主義を堅持する上で、表現の自由、言論の自由は、極めて重要な価値です。ただし、それは、マスコミのためにだけある価値ではなく、国民にとって、その代表者である政治家にとっても、重要な価値であることは理解してほしいものです。

 以上、個人的見解であり、自民党の公式見解とは関係ありません。

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国会質問

 現在、「国会質問」の掲載はありません。
 野党時の平成24年10月に文教科学委員長に就任し、その後、政権復帰に伴って、同年末に内閣総理大臣補佐官に任命され、本年1月行政監視委員長に就任し、いずれの職務も国会質問ができないものとされており、しばらくの間国会質問をしていません。どうぞ御理解いただきますようお願いします。

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新着情報

 過去の新着情報は、「新着情報(既掲)」のページに移しました。

 1月27日(水)、大分合同新聞朝刊の「論戦2016国会議員インタビュー」で私の記事が掲載されました。

 1月4日(月)、召集された通常国会冒頭の参議院本会議で、行政監視委員長に選任されました。

 4月29日(金)昭和の日、自民党憲法改正草案に掲げられている緊急事態条項について、朝日新聞朝刊「オピニオン&フォーラム」に私と首都大学東京木村草太教授との対談が、毎日新聞朝刊「論点」に私や民進党枝野幸男幹事長らのインタビューが掲載されました。なお、木村教授との対談については、朝日新聞WEBRONZAに5月6日(金)まで2時間にわたる対談の全文が掲げられています。

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