私の主張

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総裁選挙隔世の感New!(9月12日)

 9月10日、自民党本部で、自民党総裁選挙の所見発表演説会が行われ、その直前の安倍総裁を支援する議員たちの見送り会で、麻生副総理が挨拶に立ち、大勢の国会議員を前に「6年前は、もっとシャビーだったんだよ。」と話されました。本当にそのとおりでした。

 総裁選挙のあった平成24年は、自民党は野党時代であり、4月頃から安倍元総理を支援するグループが少人数で会合を重ねていました。安倍さん自身も何度か会合に出席されましたが、一言も発せずに、主戦論を唱える者、慎重論を唱える者、ただ皆さんの話を黙って聞いていました。所見発表でもおっしゃったように「病気で政権を投げ出した自分に、もう一度立候補する資格があるだろうか。」と本当に悩まれていたのだと思います。

 私は、柴山議員と共に、党内の支援者を集めるために経済財政研究会の設立準備をしていました。まだ安倍さんから立候補の表明がない中、設立趣意書が完成したので、8月下旬、総裁選挙の公示があと2週間と迫る頃、議員会館に安倍さんを訪ねました。設立趣意書を説明し、「党内に配布していいですか。」と尋ねたところ、「そうしてください。」と安倍さんから返事がありました。私は、「今何とおっしゃいました。本当に配っていいのですか。」と聞き返しました。それが立候補の表明だったのです。

 しかし、まだまだ総裁選挙で勝てる見通しは全くありませんでした。私の属する最大派閥の清和政策研究会では、既に町村会長が立候補を明らかにしていました。清和研の役員をしていた議員の中で、同じ派閥の安倍さんを支持したのは、私だけでした。当時町村派参議院の清風会では谷川秀善元議員が会長を務め、清風会総会の場で、「礒崎君、安倍君は何と言っているんだ。」と、よくお叱りを頂きました。現清和研会長で当時の細田事務総長からは、「会を割らないようにしよう。」と、何度も連絡を頂いていました。私は、清風会総会で、「今回の安倍さんに対する支持は、清和研に対する不満というのでは全くない。」ということを強く訴えました。結果として、清風会では、事実上自主投票を決定しました。そのため、本体の清和政策研究会でも、町村さんの推薦を正式決定することはなかったと、記憶しています。

 その後、時間は前後しますが、長野駅前の街頭演説会場において、町村候補が倒れられるという事件が起きました。私も、出張していましたが、その場には居合わせませんでした。総裁選挙が終わった後、特定秘密保護法案の党内取りまとめなど様々な仕事の中で、私は、町村会長にずっと寄り添わせていただきました。後に衆議院議長に就任され、平成26年3月末に個人的にお祝いをさせていただきましたが、その約二十日後に病気が悪化され、議長を辞任されました。

 甘利さんが選対本部長に就き、選対本部体制ができると、衆議院では加藤現厚生労働大臣が、参議院では私が事務局長を務めることになりました。公示日には、私と柴山議員が立候補の届出に選挙管理委員会に出向き、私は幸運にも1番くじを引き当てました。東急ホテルに選対本部を設けると、突然政治評論家の三宅久之さんが呼吸器を付けた姿でお訪ねになり、「壁に事務分担も、グラフも貼ってないじゃないか。こんなことで、君たちは勝てると思っているのか。」と、大きな声でお叱りを受けました。もちろんホテルの壁に画びょうで表を貼るわけにはいかなかったのですが、大変恐縮したのを覚えています。そのホテルも資金不足から選挙期間中に引き上げ、選対本部を党本部に移しました。

 沖縄県の那覇市でも、街頭演説会が行われました。元総理とはいえ、安倍さんもその当時は一野党議員に過ぎず、随行は私と秘書の初村さんだけでした。私が党差し回しの会場行き大型バスに乗ろうとすると、選挙を管理する総務局の職員から「礒崎さんは、乗らないでください。」と、注意されました。会場には、多くの沖縄県民が集まっており、熱のこもった演説会となりました。私は、道路の反対側で聴衆の中に入って、安倍さんの写真を撮り続けました。私のコンパクトカメラで写した写真で、安倍さんのホームページの多くが作られていました。

 今回の総裁選挙ではほとんどしていませんが、6年前の総裁選挙での最大の仕事は、国会議員への勧誘だったのです。参議院では、世耕現経済産業大臣と私で、毎日議員名簿を突き合わせながらできる限りの勧誘に努めました。ただし、昔の総裁選挙とは違って?今ではお金が動くようなことはありませんから、真剣に説得するしかなかったのです。その後、麻生派と高村派が選対に合流することになり、戦う体制が次第に整ってきました。しかし、党員票では石破さんがかなりリードすることが当初から予測されており、何とか1回目の投票で2位に入り、決定戦に持ち込むのが、作戦でした。それでも、石原さんもかなりの党員票を集めるのではないかと見込んでおり、正直言って安倍陣営では勝つ気がしない総裁選挙を続けていたのです。

 選挙当日には、支援する国会議員が集まり、験を担いでカツカレーを食べて安倍さんを送り出しました。出されたカツカレーの量が多くて熱かったものですから、駆け付けた安倍さんが完食するまでに時間が掛かり、日程が押している中司会の私が気をもんだのを覚えています。後に3,500円もするカツカレーだと報道され、ネットを賑わせましたが、事実ではありません。

 結果、党本部で行われた1回目の投票では、党員票(換算票)も入れて、石破さんが199票、安倍さんが141票、石原さんは96票などとなり、作戦どおり2位にこぎ着けました。今思うと不思議なようですが、この時が一番感動的だったのです。休憩後の国会議員による決定戦で、安倍さんが108票、石破さんが89票となり、安倍さんが逆転勝利しました。この時には、「かなりの票が石破さんに流れたな。」という感じを多くの人が持ちました。この逆転勝利については、かつて福田赳夫総理が1回目で次点となって決定戦を辞退したこともあり、党員から批判があったのも事実です。そのため、今回までに、総裁公選規程が大幅に見直され、党員票のウエイトが大きく引き上げられました。

 前々回の総裁選挙について、回顧談を書いてみました。ある意味貴重な記録にもなるでしょうし、こうしたし烈な総裁選挙を知らない世代にも伝えておきたいものがありました。今回は党内の大宗を占める立派な選対が作られ、私も政府の職にあることから、余り表立った動きはしていません。地元で、党員への電話かけを主にしています。選対も、大分世代交代してきたようです。自民党として、国民の皆さんの共感が得られるような実りある総裁選挙になることを願います。

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憲法9条2項問題とは何かNew!(8月31日)

 9月7日には自民党総裁選挙が公示されますが、大きな論点の一つである憲法改正について、国民の大多数が支持する自衛隊の保持を憲法に規定するに当たって、現行憲法第9条第2項を削除すべきか否かが、争点となっています。同項は戦力の不保持と交戦権の否認を定めており、この規定が憲法にあることの意味について、分かりやすく解説します。

 憲法第9条は、第1項と第2項から成っています。1項は、1929年に発効したパリ不戦条約第1条とほぼ同じ内容であり、侵略戦争を禁止した規定であると解されています。2項は、「前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。」と規定されており、繰り返しになりますが、戦力の不保持と交戦権の否認を定めたものです。「前項の目的を達するため」とあるため、2項は自衛権を否定していないという解釈もありますが、政府は、この解釈を採っていません。

 憲法制定議会において、吉田茂総理は、「これは直接には自衛権を否定していないが、一切の軍備と交戦権を認めないもので、自衛権の発動としての戦争、交戦権を放棄したものである。」であると答弁し、自衛権の行使を完全に否定しました。しかし、朝鮮戦争が勃発し、警察予備隊、保安隊を経て、自衛隊の設置が必要になると、政府は、憲法は必要最小限度の自衛権の行使までも否定したものではなく、そのための自衛隊は「実力」であって、「戦力」ではないという解釈を採るようになったのです。

 こうした経緯を踏まえ、憲法学者の大半は自衛隊を違憲と考え、教科書の一部においても「自衛隊の保持が違憲であるとの意見もある。」とする記述が行われています。確かに自衛隊を「実力」とする政府解釈には苦しいところがありますが、一方で、9条全体を通じた解釈として、「必要最小限度の自衛権しか行使できない。」という政府解釈を我が国は大切にしてきたのです。「必要最小限度」とは何かというと、これも国際情勢によって変わり得るものですが、例えば軍備について、国会では、大陸間弾道弾、長距離攻撃爆撃機、空母などの保持について可能かどうかという議論が行われてきました。

 こうした中で、自民党は、野党時代に、「憲法改正草案」を発表し、将来「国防軍」を保持することを表明しました。これに伴い、草案では、当然、戦力の不保持を規定した2項は、削除しました。世界中を見ても、憲法で自国の自衛権を制限した国はなく、都市国家のような小さな国を除けば、軍隊を保持していない国はありません。自民党は、「普通の国」となることを目指したのです。しかし、これは飽くまでも将来の目標を掲げたものであり、今すぐ軍隊を保持することについて、国民の大多数に支持していただけるものとは考えていません。

 そこで、安倍総裁の提案を受け、細田憲法改正推進本部長の下で、第9条の2を置くことにより、まず現行の自衛隊をそのまま憲法解釈を変えることなく憲法上位置付けることを「憲法改正素案」の中で決定しました。そのことにより、不毛な自衛隊違憲論争に終止符を打つことにしたのです。議論の過程で、「2項を残しながら自衛隊の保持を位置付けることは、憲法の中の矛盾を残すことになる。」との意見が表明されました。もっともな部分もありますが、もし2項を削除してしまうと、「必要最小限度の自衛権」という政府解釈の根拠が失われます。そうなると、いかに憲法上「自衛隊」と称したとしても、それは正に軍隊を保持することになるのです。このことに、現段階で、国民や他党の理解が得られるとは、とても考えられません。

 2項を削除する意見を述べている人たちから、新たな自衛隊の規定の中で別途「必要最小限度の自衛権」を規定するという考えは聞かれません。あるいはそうした考え方もあるかもしれませんが、現状では、現行の9条には一切手を加えずにそのままにしておいて現在の憲法解釈を大切にすべきであると考えます。

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霞が関の働き方改革(6月26日)

 河野外務大臣が、参議院外交防衛委員会で、国家公務員の残業時間が長いことについて「この状況が続けば、能力の高い人材が集まるか不安だ。霞が関は崖っ縁に来ている。」と述べました。私も、全く同感です。その残業体制の中心的問題は、国会対応にあることは、言うまでもありません。しかし、その実態は、多くの国民に余り知られていません。

 このことは、私が若い役人であった頃から基本的に変わっていません。庶務担当の上司から「できるだけ電車の動いているうちに帰れ。」と指示を受けながら、タクシー券を使って帰宅する日も多かったので、毎日5,6時間は残業していたのでしょう。土曜日も夕刻までは残業しており、月にすれば、優に100時間を超えていたはずです。そこまでひどくなくても、今も、霞が関の残業体制は、余り変わらない気がします。なぜ直らないのでしょうか。

 何が問題なのかというと、国会開会中には、衆参両院でほぼ毎日のように多くの委員会が開かれています。委員会では、たくさんの質問が出され、その答弁資料を役所が用意しなければなりません。私の所属している農林水産省でも、半日の委員会があれば、80問から100問ぐらいの答弁を用意します。それだけでも大変な仕事なのですが、前日の質問者からの質問通告が遅く、早い所でも夕刻、普通で午後7時から8時頃、遅い所では深夜0時頃になることもあります。

 まず、国会日程が決まり、翌日委員会が開会されることになると、各会派のバッター(質問者)が決まるのを待ちます。質問者が分かると、課長補佐クラスの職員が議員会館に質問取りに出掛けます。これは議員の方から見ると「質問通告」と呼ばれており、質問者で方法は異なりますが、口述の場合も結構あると聞いています。私が質問していた時は、自分で問の形で質問票を作り、レクチャーなしで秘書から各省庁に渡していました。質問取りが終わると、それに出掛けた課長補佐が役所で「問起こし」をし、質問の形に整理します。それを見て国会を担当している文書課から各局に答弁書きの依頼をします。

 それから、各局の課長補佐等が「答弁書き」をします。その後、関係局や他省庁への合議(あいぎ)をしつつ、担当局長までの了解を取ります。そこまでいくと、答弁資料の「セット」作業が始まり、答弁とともに関係資料が膨大な枚数コピーされ、質問者ごとの「答弁資料」が出来上がります。翌早朝に担当局長などによる大臣等に対する「答弁レク」が行われ、それが終わり次第大臣や他の答弁者が国会の委員会室に赴くことになります。質問通告が前日の深夜であったならば、いかに大変なことになるのか御理解いただけると思います。私が、官邸で内閣参事官をしていた頃、早朝官房長官に答弁レクする時、答弁資料がコピーの余熱でまだ温かかったことは、何度もありました。

 実は、与野党の申入れで、質問通告は前々日の正午までにすることになっているのです。それでは、質問者がさぼっていて悪いのかということになりますが、そうとも言えないのです。なぜならば、委員会の開会が決まるのは、前日のことが多いからです。国会では、「日程協議」が各委員会の与野党筆頭理事同士で行われ、これが与野党の駆け引きの中心になっています。委員会の定例日(曜日)というのはあらかじめ決められているのですが、その日に何を議題として何時間ぐらい審査をするかというのは、一回一回与野党が合意しなければなりません。その合意は前日になることが多く、その後に質問者が決まるので、与野党ともその前に質問通告をするといっても事実上無理なことが多いのです。

 地方議会では、日程は招集前におおむね合意が成されており、委員会の最終日に委員会採決、会期の最後に本会議採決がセットされ、日程の駆け引きは余り行われず、いつどの議案が審議されるかは、大方あらかじめ定まっているのです。これに対し、国会では、定例日に委員会を開会するのにも、毎回与野党合意が必要とされています。したがって、与野党申合せのように前々日の正午までに質問通告できるようにするためには、それ以前に委員会の開会が決定できるようにシステムを変えなければなりません。しかし、「日程協議」は野党の重要な対抗手段であり、それを変更するには、それに変わり得るいい案がなければなりません。

 今架空の案を言っても余り仕方がないのですが、私の案を一応示しておきます。
① 議案は、つるし(議案を委員会に付託させないこと。)を止め、適法に提出された議案は政府提出のものと議員提案のものとにかかわらず、一定のルールの下に議院運営委員会で本会議で趣旨説明するもの(登壇もの)とそうでないものとを分類し、後者は直ちに常任委員会に付託する。
② 常任委員会の定例日及び予備日は、それぞれ衆参異なる各一曜日とし、予算案の成立後は、定例日には必ず委員会を開会するものとする。これにより、衆参で大臣を取り合うということはなくなる。
③ 定例日においては、必要に応じて午前午後委員会を開くこととし、一日のうち、例えば午前を法案審査に充て、午後を一般質疑に充てる。
④ 大臣が他の公務のため出席できない場合は、与野党合意の上副大臣以下で答弁対応することを認める。
⑤ 定例日の委員会終了後、直ちに翌週の定例日の議案等を理事会で確認し、各会派は速やかに次回質問者を決定する。
 もちろん与野党で開催必要なしと合意をしたときは委員会を開く必要はありませんが、そうでない限り、会期末までに必ず毎週1回は委員会を開会することを野党に約束する代わりに、日程闘争はやめようということです。衆参各週1日でも、午前午後丸一日委員会を開くことができれば、今の委員会審議のペースと余り変わりません。議案が滞留しているときや参考人質疑などが必要なときは、予備日を使ってもいいでしょう。議案の審議終了後は、一般質疑の間隔を少し長くしてもいいかもしれません。

 こうすることにより、次の委員会までは原則1週間が確保されるので、質問者も準備の余裕ができ、前々日正午までの質問通告も可能になるのではないかと考えます。様々な論点があってなかなか簡単な改革ではありませんが、霞が関の働き方改革のため、国会も大胆な発想転換が求められています。

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 国会質問

 現在、「国会質問」の掲載はありません。
 野党時代の平成24年10月に文教科学委員長に就任して以来、内閣総理大臣補佐官、行政監視委員長及び農林水産副大臣に引き続いて就任し、いずれの職務も国会質問ができないものとされており、しばらくの間国会質問をしていません。どうぞ御理解いただきますようお願いします。

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新着情報


【平成30年(2018年)】
 9月8日(土)、大分合同新聞朝刊に、来年施行される参議院議員通常選挙の大分県選挙区情勢について、記事が掲載されました。

 6月27日(水)、自民党大分県連は、常任総務会を開き、来年施行される参議院議員通常選挙に関し、私を大分県選挙区の公認候補者として党本部に申請することを決定しました。(大分合同新聞)

 4月14日(土)、大分市で、後援会等主催の「いそざき陽輔さんを励ます会」が開催され、現在の政治情勢等について国政報告をしました。その内容が大分合同新聞朝刊(翌日付け)に掲載されました。

 3月中旬、共同通信社の配信で、自民党の憲法改正検討項目の一つである緊急事態対応について、「憲法と緊急事態条項」と題する私のインタビュー記事が掲載されました。残念ながら、地元の大分合同新聞には掲載されていません。

 1月19日(金)、大分合同新聞社朝刊に「2018年国政展望」として私のインタビュー記事が掲載されました。

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いそざき陽輔のホームページ