(平成31年(2019年)〜)

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◇首相公選制(2021年9月22日)
◇第2次安倍政権の功罪(2020年9月19日)
◇「公用文作成の要領」改定へ(
2020年3月27日)
◇憲法改正をどう進めるか(2019年10月9日)

◇参議院議員選挙を終えて(2019年7月30日)
◇議員立法(2019年4月25日)
◇最低賃金を考える(2019年3月26日)
◇糖質制限ダイエットの勧め3(2019年1月9日)

首相公選制(2021年9月22日)

1 子供の頃、総理大臣が替わるという話になったときに、テレビを見ると与党の自民党の人ばかりで議論しているのを不思議に思ったことがあります。長じて、政治の仕組みが分かってくると、アメリカの大統領や都道府県知事と比べても、日本の内閣総理大臣に敬意が払われていないのは、国民や住民が直接選挙していないからだと気付くようになりました。
  議院内閣制は、国民が国会議員を選出し、国会議員が内閣総理大臣を選出するという間接選挙の方式を採っています。しかし、国会における首班指名選挙では、議席の過半数を占める第一党の党首が選出されるのは当然であって、実質的な選挙戦が行われるわけではありません。そのため、勢い第一党の党首選挙の方に国民の関心が向けられるわけです。
  政党は法的には私的団体であり、党首選挙について法の規制が行われていません。近年、自民党では、総裁公選規程を整備し、党員等による投票も組み入れた公明正大な方法で党首が選出される仕組みを設けています。過去、一部の幹部による密室談合で後継総裁が決められたと批判されたこともありました。
  そこで、政治の活性化を促すため、小泉純一郎元総理などにより首相公選制の導入が唱えられたことがあります。しかし、首相公選制を導入するためには憲法改正が必要であり、なかなか現実の政治日程に入れるのは困難でした。自民党が野党時代に策定した「憲法改正草案」でも、もちろん首相公選制が議論されましたが、この議論を始めると憲法の統治機構に関する多くの規定で改正案を練る必要が生じることから、否定も肯定もせず、別途議論することとされました。

2 首相公選制と天皇との関係が議論されることがあります。天皇の存在と大統領制は、なじまないという意見があります。しかし、首相公選制は、大統領制を目指すものではありません。このことは、はっきりさせておかなければなりません。飽くまで議院内閣制を維持した上で、内閣総理大臣の選出に限って国民が直接関与できる方式を採ろうということなのです。
  天皇は日本国の元首であり、天皇が内閣総理大臣を任命するという憲法の規定を堅持する限り、天皇の尊厳が損なわれることは全くありません。総理大臣の選出方法により天皇の尊厳に影響を与えると考えるほうが、むしろ不遜な見方でしょう。

3 とはいうものの、首相公選制と議院内閣制は、一見矛盾する制度です。この調和をどう図っていくかが、首相公選制導入の最大の課題になります。国会における第一党(国会には衆議院と参議院がありますが、このことは置いておきます。)の党首が首相公選で常に総理大臣に選出されていれば大きな問題は生じませんが、そうならないこともあるのが首相公選制です。総理大臣の所属政党と国会の多数党との間にねじれが生じることは、当然あり得るのです。アメリカでも、大統領の所属政党と議会の多数党がねじれていることは、よくあります。
  したがって、首相公選制を導入するだけでは、後の政治がうまく動きません。内閣総理大臣の所属政党と国会の多数党がねじれることもあることを前提として、内閣総理大臣ないしは政府と国会の関係を整理する新たな仕組みを考えなければなりません。地方では、首長制という大統領制を既に採っています。首長、すなわち都道府県知事や市町村長と議会の関係については、地方自治法に規定があり、そこにヒントがあります。また、首相公選制においては政府と国会がある程度協調する必要があり、その導入は、現状の与野党絶対対決のくびきから抜け出す契機になるかもしれません。

4 議院内閣制を維持した首相公選制とは、どのようなものになるのでしょうか。ここからは、幾つもの案があり得ます。
  まず、首相公選に立候補できるのは、国会議員でなければなりません(衆議院議員と参議院議員の関係の問題がありますが、置いておきます。)。ただし、誰でも立候補できるとするわけにはいかないので、一定の人数の国会議員の推薦を要件とすることになります。乱立を避けるため、推薦人の数はある程度の人数にする必要があります。当選には有効投票の過半数を得ることを条件とし、過半数を得た者がないときは上位2位までで決選投票を行うとするのが常識的でしょう。
  内閣総理大臣の任期は4年とし、解散時を除いて国会議員の議席を失わない限り、衆議院の総選挙の実施にかかわらず、継続するものとします。首相公選で選出された総理大臣が組織した内閣を衆議院の過半数で不信任とするわけにはいかないので、内閣不信任案は3分の2以上の賛成を要件とします(地方自治法は、4分の3)。内閣は、衆議院で内閣不信任案が可決されたときは、現行どおり衆議院の解散を決定することができますが、総選挙後の特別国会で内閣不信任案が再び可決されたとき(このときの要件は、過半数)は、内閣総理大臣は辞任しなければならないものとします。一方、いわゆる7条解散、内閣の助言と承認を根拠とする解散は、できないこととすべきでしょう。これにより、衆議院議員の4年の任期は全うされる可能性が大きくなります。
  内閣総理大臣に拒否権(再議権)を与えるべきかどうかの議論があります。地方自治法では、首長に議会の議決に対しての再議権が認められており、再議を求めたときは3分の2以上の賛成による再議決が必要となります。消極的な調整手段は拒否権を認めることで可能ですが、ねじれ国会の中で予算案の可決等政府の施策を実現するための積極的な調整手段は、法制的に難しいものがあります。与野党で、国民の負託に応えるにはどうしたらいいのか、知恵を絞らなければなりません。
  閣僚の過半数は国会議員を充てるなど内閣の組織については、現行どおりで良いでしょう。ただし、緊急事態に備え、常設専任の内閣副総理大臣を置くこととしたほうが良いかもしれません。

5 ここまでの解説で御理解いただいたと思いますが、首相公選制を導入するには、最低でもかなりの項目の憲法改正が必要になります。ただでさえ憲法改正には大きな困難が伴うので、実現可能性が十分あるとは言えないでしょう。しかし、野党にとっても、国会で多数が得られなくても、国民の支持を得られる統一候補を担げば政権を得る可能性が出てきます。また、衆議院議員の任期4年を全うする可能性が大きくなるのも、メリットでしょう。議論の糸口は、あると考えます。
  一方、与党の方も、国民の支持を得やすい候補を担がなければならなくなるでしょう。そうした中で、首相公選の候補者(総理)と党の総裁を別の人にする総総分離論も出てくるものと考えられます。

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第2次安倍政権の功罪(2020年9月19日)

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1 始動
2 外交・安全保障
3 経済
4 内政
5 憲法改正
6 不祥事等

 安倍晋三内閣総理大臣が、体調崩し、7年8か月に及ぶ第2次安倍政権の下、退陣することを決意しました。私も、第2次政権当初から2年10か月内閣総理大臣補佐官を務め、その後農林水産副大臣として2年2か月政府にあり、安倍政権を支えてきました。その間私の知り得た安倍政権の功罪について、まとめてみたいと思います。

1 始動

 民主党政権が3年近くになり、政権奪回へ焦りが募っていました。その年の9月には任期満了に伴う自民党総裁選挙が迫っていました。谷垣禎一総裁は、野党党首としてふるさと対談を始め党再生のため本当に尽力されていましたが、民主党を総選挙に追い込むにはまだ時を要していました。「礒ちゃん、総裁選挙どうする。」と初めて聞いてきたのは、地元の先輩で予算委員会理事を一緒に務める衛藤晟一参議院議員でした。「私も安倍さんしかないと考えていますが、町村派ですからね。」と答えました。私は、1年生議員ではありましたが、予算委員会での質問などを通じ、党の内外で少し名前が出始めていました。清和政策研究会(町村派)の幹事を務め、派閥でも役員をしていました。

 その後、衛藤参議や古屋圭司衆議院議員と何度か会合し、「安倍を支持する人間を少し集めよう。」ということになり、私は清和研の中で所属議員の動向を探ることになりました。最初は内緒で何回か会合を持ちましたが、次第に人が増えてくると、党内にも漏れてきました。自民党の参議院幹事長で参議院町村派清風会会長を務める谷川秀善参議院議員から、清風会総会の場で「安倍は何と言っているんか。」と何度か責められることになりました。清和研の役員で安倍さんに動いているのは、私だけだったのです。

 有志の会合では、「そろそろ安倍さんにも来てもらおう。」ということになり、参加していただきました。こういう会合ではすぐにセンターに座ろうという人が多いので、私がセンターに陣取ってそれを阻んでいました。現内閣官房長官の菅義偉衆議院議員は、いつ来ても隅の方に座っており、逆に「すごい人だな。」と感じていました。私の両横で、主戦派の衛藤参議と慎重派の西田昌司参議院議員が大声でけんかをしていました。その間、安倍さんは黙って各人の発言を聞いており、会合では一言も発言しませんでした。

 8月に入って支持者を集めるための組織を作ろうという話になり、経済財政研究会(仮称)を立ち上げることにしました。柴山昌彦衆議院議員が作ってきた設立趣意書に私がたくさん手入れをしたので、柴山代議士が憤慨したのをよく覚えています。それを持って衆議院議員会館内の安倍事務所を何度か訪ね、説明しましたが、安倍さんからは何ともはっきりしない返事しかもらえませんでした。ところが、下旬になってもう一度訪ねたところ、「これでいいです。」という回答をもらいました。私は、「本当にいいのですか。」と、聞き返しました。安倍さんが第1次政権を投げ出したこと、病気のことを心配していたのはもちろんのことですが、総裁選挙に勝つ見通しが立っていなかったのも事実でしょう。

 私が経済財政研究会の了解をもらったと関係者に告げると、「安倍立候補」の話は、一気に公のものとなりました。参議院議員らの清風会総会が開かれ、また谷川会長から私に説明が求められました。私は、「安倍さんが、清和研がどうとか、町村会長がどうとか言っているのではありません。日本のためにもう一度立ち上がりたいと言っているだけです。」と、長い演説をさせてもらいました。その後、各人の発言が続き、何と清風会は最終的に「自主投票」を決めたのです。清和研の衆議院幹部には全く想定外のことであり、結局、総裁選挙が終わるまで清和研の総会は1回も開催されませんでした。

 町村信孝清和研会長のことは多くを述べませんが、その後総裁選挙の最中に脳梗塞で倒れられたのは、御承知のとおりです。政権復帰後に政務に復帰され、その後、私は、できるだけ町村会長に寄り添ってきたことは申し上げておきます。衆議院議長就任後すぐに再び病に倒れられ、帰らぬ人となったのは、本当に残念なことでした。

 今考えるとうそのようですが、安倍陣営に勝つ見込みがあった訳ではありません。石破茂衆議院議員が地方部に圧倒的な人気を持っており、石原伸晃衆議院議員もかなり強いと見ていました。ホテルに設けた選対本部に、政治評論家の故三宅久之さんが押し掛け、「こんなことで勝てるのか。」と怒鳴りつけられました。そのホテルもお金がなくなり、選対本部は、党本部に引っ越しました。石原代議士が立候補を断念した谷垣総裁の下で幹事長であったことから批判を浴びるようになり、見通しに若干の変化が生じてきました。その後、麻生派、高村派が合流することになり、明るさを増してきました。それでも、「党員投票で第2位につけ、国会議員票を含めた決戦投票で逆転する。」というのが陣営の基本方針であり、合い言葉になりました。

 総裁選挙が始まり、私と柴山代議士が立候補受付に出席し、私が一番くじを引きました。陣営では、甘利明衆議院議員が選対本部長に就任し、現厚生労働大臣の加藤勝信衆議院議員が衆議院の事務局長を、私が参議院の事務局長を務めることになりました。すぐに地方遊説が始まり、私も各地に出掛けました。これも今信じられないことですが、遠隔地では、安倍さんの同行は私設秘書と私だけという所も多かったのです。その時の安倍さんのブログに「礒崎さんは、いつも大衆の中にいる。」というコメントがありましたが、私しかカメラマンがいなかったので私が街頭演説にお集まりの皆さんの位置でカメラを構えて街宣車の上の安倍さんを撮影していたのです。その写真で安倍さんのホームページは作られていました。

 総裁選挙の開票が始まると、石原代議士の地方票が余り伸びていないことが分かってきました。その一方で、石破代議士は確実に地方票を積み上げていました。結果、念願どおり第2位につけ、決選投票に進めることになり、一同ほっとしたところです。そこからは、なりふり構わない国会議員に対する多数派工作が始まりました。私も、現参議院幹事長の世耕弘成参議院議員の指示の下、動き回りました。ただし、昔と違うのは、お金が動くことは一切ありません。その後のことは、皆さんが御承知のとおりであり、安倍さんが自由民主党総裁に返り咲きました。正直に言うと、総裁になった途端に安倍さんとの距離感は相当大きなものになり、私は、しばらくさみしい思いをしていました。

 この段階では、安倍さんは野党の党首になっただけですので、敵は与党民主党にあり、政権奪取をしなければなりません。そのためには総選挙をしてもらわなければなりませんが、解散権は野田佳彦総理のみが持っており、おいそれと行使してもらえるものではありません。政権奪取までの経緯についてはマスコミの報道により明らかになっているとおりですので、省略します。総選挙の後年末に特別国会が召集され、首班指名を経て組閣が行われました。その中で、私は内閣総理大臣補佐官を拝命しました。1回生の国会議員がこの職に就くのは、異例であったと思います。

2 外交・安全保障

 今は、新型コロナウイルスの感染で世界中が大変な事態になっています。この事態に的確に対応するのが、政治の最大の課題であることは言うまでもありません。その間接的な政治への影響としては、東京オリンピック・パラリンピックの1年延期もさることながら、外交、特に首脳外交が停滞していることを指摘できます。今年に入ってから、安倍総理が最も得意としている外交の分野での動きがほとんどありませんでした。サミットも中止となり、中国の習近平主席の訪日も延期されました。安倍総理としては痛手だったと思います。

 安倍総理は、就任直後から「地球儀を俯瞰(ふかん)する外交」を掲げ、世界を飛び回りました。最初の1年間で30か国程度を訪問しました。こんな総理は、かつていませんでした。米中ロの超大国の首脳全てと対等に話ができる首脳は、他国にはいません。世界中の国が安倍総理の調整手腕に期待していました。今までの総理は、外交は、内政の合間に行っていました。しかし、安倍総理は、外交を自身の政策の第一に掲げました。それは、安全保障が総理の頭の真ん中にあったからです。国を守る。為政者として最も重要なことであるのは、言をまちません。しかし、長い平和の中で、必ずしも実質的な政策をもって実現の努力がされてきたわけではありません。安倍総理は、それでは駄目だと考えていたのです。正に安全保障のための外交であったと、私は、考えます。

 総理補佐官であった私は、外交そのものにはタッチはしていません。この分野では、外務省出身の兼原信克内閣官房副長官補が大変努力してくれました。私が担ったのは、外交・安全保障を担う国内体制の整備でした。国家安全保障会議の改革、特定秘密保護法の制定、平和安全法制の整備でした。後に特定秘密保護法や平和安全法制が大変な事態になってくるのは、皆さん御承知のとおりであり、一人で多くの「嫌われ役」を引き受けることになりました。

 外交・防衛の司令塔を作りたいというのが、安倍総理の希望でした。従来、役所の幹部が官邸の総理を訪ね、個別に施策の説明をして、「総理の了解を得た。」と関係所に報告して世の中が動いていました。安倍総理は、これでは外交と防衛のすり合わせが全く行われず、有効で体系的な安全保障政策はできないと考えたのです。そこで、従来ある国家安全保障会議を改組し、機動的にすることを指示しました。有識者会議では、総理出席の下、座長を置かず、私がずっと進行を務めました。様々な観点がありましたが、要は、安全保障に関する決定は、国家安全保障会議の全体会議ではなく、総理、官房長官、外務大臣及び防衛大臣の4大臣のみで定期的に会合して決定することとしたのです。

 実は、役人時代、私が安全保障担当の内閣参事官の時に、国家安全保障会議の改組の法律改正を行っており、役人時代に行った仕事を政治家としても再び行うという巡り合わせになりました。その時の上司に内閣官房副長官だった安倍さんがおり、私が政治の道を選んだのも、その出会いが影響したのかもしれません。会議の事務局の名称は、安倍総理が私の地元に来県した折に、大分空港の応接室で「国家安全保障局」とすることを決めました。この法案は、国会でも大議論にはならず、成立しました。

 特定秘密保護法がこんな大事になろうとは、考えていませんでした。なぜならば、同法案は、民主党政権時代にほぼ出来上がっていたものだからです。アメリカと安全保障に関する情報を共有するには、秘密の漏えいに国家公務員法上の罰則しかない我が国の仕組みでは不十分であり、公務員に対する罰則強化を目的とするものでした。私が民主党政権の法案に修正を指示したのは、題名が「特別秘密保護法」であったので、あんまりだから「特定秘密保護法」にするようにということだけでした。民主党政権が作った法案だから、同党も賛成してくれるはずだと高をくくっていました。

 この事務を補佐してくれたのは、警察庁出身で現国家安全保障局長の北村滋内閣情報官です。彼は、官邸のアイヒマンなどとやゆされていますが、本当に真面目で職務に忠実な立派な公務員です。彼と一緒に与野党回りましたが、最初の頃は、それほど反対の声も大きくないと感じていました。マスコミも、新聞の方は初期には大きな反対論もなかった記憶しています。火の手が上がったのは、テレビのワイドショーでした。誰が仕掛けたのか知りませんが、「居酒屋でオスプレイの話をしたら、逮捕される。」などと根も葉もないことを言い始めたのです。私がテレビに出演したときも、有名なキャスターが真顔で私にそう質問するのです。

 火消しに努力しましたが、新聞も攻勢に転じ、正しい情報を伝えてくれないようになりました。その状況を見て、国会対応も大変になるので、専任の国務大臣を置いてもらえないかという話がありました。私は、現法務大臣で参議院同期の森まさこ参議院議員を推薦しました。このことは本人も知っており、後に「学校で子供まで大変なことになっているんだから。」と、叱られました。本当によくがんばってくれたと、今でも感謝しています。

 安全保障の最後の仕上げは、集団的自衛権を含む自衛隊法等の改正でした。早い段階で、私から安倍総理に「現行の憲法9条の解釈は、変更できません。必要最小限度の自衛権しか行使できないという解釈の下での集団的自衛権でよろしいですか。」と、聞きました。安倍総理は、「それで結構です。」と答えました。有識者会議を設置し、現JICA理事長の北岡伸一国際大学学長に座長をお願いしました。私も有識者会議の議論に毎回参加していましたが、「どうぞ先生方の御自由に議論してください。ただし、政府としてその御意見を取り入れられるかどうかは、別の話です。」と、申し上げていました。案の定、有識者会議の答申が公表されたその日のうちに安倍総理が記者会見でその一部を否定するという事態になりました。しかし、有識者会議が意味がなかった訳ではなく、安全保障に関する大変濃い有意義な議論ができたものと、今でも考えています。

 与党調整が始まりました。私から安倍総理に「公明党との調整は高村さんに、党内調整は石破さんにお願いしてはどうですか。」と、進言しました。総理は、「それがいいね。」と、その方向で動いてくれました。両先生には、本当に御尽力いただき、何とか与党案をまとめていただきました。公明党との調整には、水面下で菅官房長官が動きました。防衛省出身で安全保障担当の高見澤將林内閣官房副長官補も、本当によく努力してくれました。その頃、外務省から抜てきした小松一郎内閣法制局長官が病気で倒れ、残念なことをしました。私にも、誠実に尽くしてくれました。その後、法務省出身の横畠裕介長官が後を引き継いでがんばってくれました。
 
 法案を国会に提出した後に、「平和安全法制」などと名前を付けましたが、その後の審議に至難を極めたのは、皆さん御承知のとおりです。田原総一朗さんのテレビ番組で、民主党の枝野幸男幹事長とも、直接対決しました。その後、私にも、災厄が降りかかりました。地元の私の後援会の集会で、「必要最小限度というのはその時々の国際情勢により変化するものだから、そこは、法的安定性の問題ではありません。」と発言したところ、国会で問題とされたのです。政府の公式見解に沿った発言だったのですが、読売新聞だけが記事にしました。地元の会合にはNHK始め、朝日新聞、毎日新聞など礒崎番の記者が全員来ていたのですが、翌日記事にしたのは一社だけでした。その後更に大騒ぎになり、参議院の安全保障特別委員会では、故鴻池祥肇委員長からもお叱りを受けました。特別委員長に同氏を推薦したのは、私だったのですが。紆余曲折を経て、マスコミ的には強行採決という形で法案は成立しました。

 安全保障の議論はなかなか国民一般にはぴんとこないものですが、こうした制度改正を通じ、アメリカとの関係、すなわち日米安保体制はより強固なものとなり、安全保障政策の国内調整もきちんとできるようになりました。後世には、安倍政権の最大の功績と評価されるものと、私は、自負しています。

 外交では、北方領土問題と拉致問題が残された課題となりました。両方の困難な課題に対してこれだけの努力をした総理は安倍総理を除いてはいませんでした。ロシアのプーチン大統領とは、30回を超える首脳会談を行いました。しかし、領土問題にはロシア側にも国内的に譲れない一線があり、それを突き崩すことはできませんでした。拉致問題も、安倍総理は、本当に心血を注いできました。国民の目には何もしていないように映るのでしょうが、水面下で様々な調整をしているのです。現実にも米朝首脳会談において、アメリカのトランプ大統領が言及する所まで漕ぎ着けました。それでも、北朝鮮という国が尋常の国ではないことは、御承知のとおりです。被害者家族が高齢化し、お亡くなりになる方も出て来ました。一刻も解決を急がなければならないのは、誰が政権を取っても当然のことです。このほか、イージスアショアの配備断念に伴うミサイル防衛の強化の課題がありますが、次期政権の宿題となりました。

3 経済

 「失われた20年」と当時言われていました。昭和のバブル経済が終えんするまでに国民所得は確実に向上してきましたが、平成に入ると実質経済がそれを支えるだけの伸びを示さなくなり、我が国自慢の終身雇用体制が壊れてきました。そこに非正規雇用という新たな仕組みが導入され、格差社会が大きな問題となってきました。安倍総理は、景気回復こそが格差社会を解決する最大の政策であると考えたのです。後に「アベノミクス」と呼ばれる三本の矢を示しました。金融政策、財政政策及び規制緩和を機動的に実施することを指示しました。特に日本銀行がバブル経済の立ち直りの中でインフレを極端に恐れ、金融緩和を十分に行っていないという批判は自民党内部にも大きく、アベノミクスは歓迎をもって迎えられました。

 その結果、株価は民主党政権時代の3倍にまで回復し、デフレ経済から脱却したのは、誰の目にも明らかでした。規制緩和が進んでいないと経済界はいつも主張しますが、そんなことはありません。エネルギー、通信、医療、農業の分野を始めかなりの分野で規制緩和は進みました。日銀は、緩やかなインフレ経済を目指し、2パーセントのインフレターゲットを設定しました(正式にはそうは言っていませんが。)。景気の緩やかな回復は続いていましたが、野党からは実質賃金が上がっていないとの批判を受けました。賃金の引上げについては、安倍総理が自ら経済界に要請するというこれまでの総理が絶対にしなかったことを行いました。もちろん、その成果もあり、名目賃金は上昇しました。各府県の最低賃金の引上げにも、強く努力しました。

 一方で、デフレ解消後、日銀が目指す2パーセントのインフレがなかなか実現しませんでした。日銀がいつも「潤沢な資金を供給している。」と言っているのは事実ですが、明らかに経済学で言う「流動性のわな」の状況に陥っていました。利子率が余りに低いと投資意欲が上昇してこないのです。同じことは市中銀行にも当てはまり、資金はあるのですが、低金利政策の中でハイリスクを取れなくなっており、融資の審査は一層厳しさを増しています。政府関係金融機関も、政府の掛け声にもかかわらず、慎重な貸出しを続けています。このことにもっと皆さん気付かなければなりません。

 この分野では、現経済担当大臣である西村康稔衆議院議員が長年努力してきました。やはりイノベーション(発明発見)が最大のポイントになります。医療や農業分野を始めとし、政府のてこ入れにより広範な分野で研究支援を続けているのは、御承知のとおりです。しかし、景気を大きく支えるほどの新規事業が見いだせないのも事実です。もうパソコンも機能的には行き着く所まで至り、今はスマホやタブレットの時代となりました。新しい通信規格の5Gが注目されていますが、景気を支えるレベルのものにはならないでしょう。自動運転、AI、ロボットなどに期待が集まっていますが、どれだけの景気押し上げ効果があるでしょうか。

 私は、安倍総理への最後の質問になった参議院決算委員会で、「公共事業は、かつての半分程度に減少しています。その上、地方単独事業は、かつて公共事業の倍近い20兆円を超えていたが、4分の1程度に落ち込んでいます。これが地方不況の原因です。」と質問しました。率直に言って、地方財政は、安倍総理の不得手の分野でした。ひとり安倍総理というよりも、政界財界学会マスコミを通じて地方財政を理解している人は、本当に少ない状況にあります。

 安倍総理が、野党に言われるまでもなく、賃金を上げることが景気回復へつながる道であることは、誰よりもよく分かっていました。だから、賃上げを求め、最低賃金を引上げ、同一労働同一賃金の原則を法定化したのです。私が野党時代菅直人総理に同一労働同一賃金の質問をしましたが、けんもほろろの答弁しか返しませんでした。今必要なことは、緩やかなインフレーションを起こし、わずかでも金利をまともなレベルに戻すことです。誰が経済のかじ取りをしても難しいことであり、従来的な財政金融の手法では難しいかもしれません。新型コロナウイルスの影響で、働き方改革が一層進展しています。こういう時は、観光、芸術など余暇を含めた文化的事業に国民の支出を振り向けていくことが重要ですが、倹約好きな日本人には簡単なことではありません。

4 内政

 内政分野は、安倍総理がかつて党内で社会部会長を務めていたことから、厚生労働分野はある程度の見識を持っていますが、その他の分野については、余り詳しいわけではありませんでした。内政は、菅官房長官が多くを担っていたと言われています。菅長官が主に担っていたのは、総務大臣の経験から自治、郵政通信の分野に加えて、農業分野です。官房長官は、それだけでも大変な職務ですから、内政全体を総合的に差配することは難しかったと思います。事務の杉田和弘内閣官房副長官は、私が内閣参事官の時代に内閣危機管理監として仕えた上司でもあります。警察庁出身であるので、災害対応等危機管理の方面では他の追随を許さない安定感がありました。霞が関にもにらみは利いていましたが、経済政策の面は必ずしも得意ではなかったと思います。

 この分野で、跋扈(ばっこ)したと言われているのが、経済産業省出身の今井尚哉首席総理秘書官(現総理補佐官兼務)ら総理秘書官の皆さんです。今井さんは、役所は違いますが、役所の年次は私と同じです。首席秘書官は誰がやっても嫌われ者になるのですが、今井さんは嫌われ者としての真骨頂を遺憾なく発揮していました。私は、評価しています。安倍総理の信頼も、大変厚かったのです。もう少し霞が関の役所がきちんと付いて行ければ良かったと思います。

 社会保障面でも、上記の賃金や雇用の面のほか、保育待機児童問題にも相当力を入れてきました。いつもこの問題を野党は追及しますが、政府は何十年も前からこの問題に真剣に取り組んでいるのです。女性の社会進出がそれを上回る速度で進んでいることから、今なお待機児童が存在しているのです。そうは言っても、個々の母子にとってはかけがえのない時期時間ですから、更に努力を傾けていかなければなりません。内政の問題は、東京一極集中にあります。地方創生は、地方からも評価され、順調に進展しています。しかし、一番大事な地方への人口の流れが起きていないのも事実です。東日本大震災からの復興など災害復旧に全力を尽くしてきたため、それ以外の分野で地域施策が少なかったことも、安倍政権の課題であったと言えるでしょう。

 マスコミが役所の不祥事は安倍一強のせいだと書いていますが、そんな理屈はおかしいと思います。やはり霞が関全体の能力が落ちているのです。現役の役人に聞いてみると、官邸からの発注が増えてきたのは、事実だそうです。そのため、最優先で処理しなければならず、懸案事項について十分積上げをする時間がないとこぼしていました。そうなのでしょうが、それは安倍一強が原因ではないでしょう。役人にも、官邸と十分渡り合えるだけのパワーを持ってほしいものです。そう言うと、内閣人事局が幹部人事権を持っているから、何も言えなくなっているとマスコミが書きます。官邸の意向を無視する霞が関の群雄割拠は、民主主義に反するものとマスコミもかつて批判をしていたはずです。ああ言えばこう言うでは、困ります。

 不祥事に伴う財務省の地位低下が、これに拍車を掛けています。本当に天下国家を論じ、霞が関をリードしていく役所がなくなってしまいました。内政面では、財務省出身の古谷一之前内閣官房副長官補が人に見えない場所で本当に努力していました。ただし、副長官補というのは官僚の中では相当高位ですが、内政全体を動かすには役職として不足だったかもしれません。特に皇室関係では、私の自治省同期の河内隆元内閣総務官や一期下の山崎重孝前内閣総務官(いずれも前現内閣府事務次官)ががんばってくれました。

 私は、外交安全保障の分野では国家安全保障会議を設置し、経済財政の分野では経済財政諮問会議が既に設置されていることから、その他の内政分野についても内閣の意思決定の場を設けてはどうかと考えています。この内政分野だけそういう機能が官邸にないから、従来の茶坊主型の政治過程がいまだに横行しているのです。もう密室政治の時代ではありません。是非検討してほしいと思います。

5 憲法改正

 安倍総理の自民党総裁としての最大の課題であった憲法改正は、任期中に成し遂げられることはありませんでした。その最大の原因は、集団的自衛権の容認を含む平和和安全法制が憲法違反だとし、野党側が立憲民主党の枝野代表を筆頭に「安倍政権の下では憲法改正はしない。」と言い出したことにあります。憲法改正は、立法権である国会の仕事であって安倍内閣とは直接関係ある話ではありませんが、そういうことを唱えても聞く耳を持ちません。もちろん野党の一部には、こうした立憲民主党を中心とする勢力の考えに同調しない人たちもいます。

 与党にも問題がありました。自民党の憲法改正推進本部は、総裁の直属機関とされており、安倍総裁がもっと明確にリーダーシップを発揮すべきだったと考えます。私は、衆議院議員の保利耕輔本部長の下で、憲法改正草案を起案しました。野党時代であったので、自民党の目指す憲法改正の方向性を何の遠慮もなく織り込むこととしました。そのため、草案がそのまま具体的な憲法改正原案になることは、想定していませんでした。保利先生は、党内の信任が厚く、正に真摯に憲法改正に取り組んでいました。しかし、選挙区の事情で突然次期出馬を取り止め、本当に残念なことでした。

 その後を受けた衆議院議員の船田元本部長も、長く憲法改正に携わっており、その補佐をした中谷元衆議院議員と共に野党にも太いパイプを持っていました。私も、お二人の下で仕え、共産党及び社民党を除く全政党参加の協議会を設け、選挙権年齢の18歳引下げ法案等憲法改正環境の整備のため、努力しました。そんな折、衆議院の憲法審査会において自民党が招致した長谷部恭男東大教授が政府の平和安全法制を批判するという事件が起きました。そのことから党内右派から批判が起き、残念なことにその後本部長の交代を余儀なくされました。その後を受けた衆議院議員の森英介、故保岡興治両本部長は、どういう訳か、また誰の進言か、任期中憲法改正の勉強会ばかり開いて、具体的な話は全く進みませんでした。

 安倍総理も、さすがに焦ってきたものか、憲法記念日に自ら任期中に憲法改正することを明確に訴えました。憲法9条の改正は将来課題と考えていただけに、私には、安倍総理がそれを持ち出したのは意外でした。私は、安倍総理に「党内をまとめられるのは、細田先生しかいないのではないですか。」と話していました。私も、直接清和研会長でもある細田博之衆議院議員にお願いしましたが、「憲法は、私の仕事ではありません。」と固辞されていました。その後の経緯は知りませんが、結局細田代議士が本部長に就任されることになりました。私としてはうれしかったのですが、その時点で既に2年間を浪費していたのです。就任後、細田本部長は、憲法改正素案の取りまとめに全力を尽くしました。久しぶりに党内で活発に大議論が行われ、四つの項目に絞った素案が出来上がりました。

 その折、党内では静かな路線対立が起きていました。憲法改正に係る公明党との調整は、平和安全法制に引き続いて衆議院議員の高村昌彦副総裁が当たっていました。公明党の中では、平和安全法制を通じて自民党に妥協しすぎたのではないかとの意見も強くなっていました。公明党は「加憲」は認めるという立場だったのですが、特に山口那津男代表を中心に慎重な姿勢を示すようになりました。そのため、高村副総裁は、憲法改正素案について公明党との与党協議をすることは難しいと判断し、その旨安倍総理に報告しました。細田本部長は、「与党一体の原則の下、何でも公明党と話し合ってきたではないですか。どうして、憲法改正だけ、話し合いをすることさえできないのですか。」という考えでした。そのことが細田本部長の辞任へとつながり、下村博文衆議院議員が後任となりました(現在、細田本部長が再任されています。)。

 もう一つの問題は、「憲法改正案は、衆参の憲法審査会で議論する。」ということが、いつの間にか党の公式見解になったということです。私は、憲法改正推進本部で、「そんなことを党として正式決定した記憶はありません。憲法改正に絶対反対の共産党や社民党がいる場で、憲法改正案の具体的な取りまとめができるわけないではありませんか。」と訴えていました。私は選挙権年齢の引下げなどで活用したように与野党の協議会を設置すべきであると主張していましたが、与党公明党との協議ができない以上野党も入れた協議会を設置することは困難であったのでしょう。ここに憲法改正への道程に大きなネックが生じました。

 私は、安倍総理が党総裁としてもっと早くもっと明確に憲法改正の方針を示すとともに、役員人事を含め憲法改正推進本部の運営にしっかりと介入すべきだったと考えます。そして、公明党との調整に自ら動くべきだったと考えます。憲法改正が安倍総理の最大の目標であったことは、側にいてよく分かります。その割には、動きが緩慢としていたというのが私の率直な感想です。個人的なことを申し上げれば、政府部内で重用していただいたことは心から感謝していますが、党の中に置いていただければ、もう少しお役に立ったかもしれません。

6 不祥事等

 マスコミが指摘している不祥事について、明確に解説しておきます。

 まず、世間を大きく騒がせた森友学園事件についてです。この事件は、財務省による公文書改ざんという大きな事件に発展しました。最初に申し上げておきますが、昭恵夫人の動きがあり、そこに役所が忖度する余地があったことは否定しません。しかし、それがこの事件の本質ではありません。マスコミが余り報道しませんが、国土交通省航空局が管理する大量の廃棄物を含む不良物件があり、それを何とか処分しようとする大阪航空局とそれを少しでも安く買い叩(たた)こうとする森友学園側との暗闘こそが、この事件の実態です。それに普通財産の処分を担当する財務省や近畿財務局が後から関わってきたという構図です。

 後に会計検査院が指摘しているように、籠池氏側が強迫した結果売却額の割引が異常な額になったのは事実です。だから、役所を守ろうとする当時の理財局長は、国会で正直に答弁できなかったのです。しかし、検察庁が最終的には背任罪まで問うことはできなかったように、違法とまでは言えないぎりぎりの所で役所は仕事をしていたのです。それでも、公文書の改ざんは、言語道断であったことは、言うまでもありません。

 確かに森友学園事件は、まだ全容が解明されたとは言えません。国会答弁との整合性を保つためと財務省は説明していますが、なぜ理財局長が公文書改ざんまでしなければならなかったのか、なお不明な部分があります。私はもう少し調査をした方がいいと考えていますが、それをするとけが人が増えるので、役所は嫌がっているのでしょう。いずれにしても、たまたま昭恵夫人が同学園の知己であり、やらずもがなの照会を役所にしたという以上に安倍総理とこの事件の関係はありません。

 つぎに、加計事件、この件は、私は「事件」と呼ぶのもおこがましいと考えています。単に加計学園の理事長と安倍総理が友人であったということだけで、野党が事件化しようと企てたものです。故加戸守行前愛媛県知事が証言しているように、同県への同学園の獣医学部の誘致は、地元では前々から進められていたのです。しかしながら、文部科学省が獣医学部の新設は従来認めない方針であったため、特区制度を活用することになりました。しかし、そうなるともう一度最初から公平な募集をしなければならず、本当に公平に行われたのかどうか国会で質疑の対象とされました。その中で、忖度なのかどうかは分かりませんが、内閣府の役人や総理秘書官に不可解な動きが一部あったのも事実です。

 しかし、それは安倍総理とは全く関係のないことであり、それを疑わせるような事実も出て来ていません。獣医師の所管は農林水産省であり、当時農林水産副大臣であった私にも関係のある事件でした。私は、当初、「農林水産省は、絶対にうそを言ってはいけません。」と、職員に厳命しました。おかげで、他府省が野党の追及を受ける中、農林水産省がこの件でお叱りを受けることはありませんでした。政府全体としては、法律に基づいて適切に公募手続が行われたものと考えています。

 「桜を見る会」については、大いに反省しなければならない点があります。桜を見る会が政権のある意味利権とされていたのは、過去の自民党政権や民主党政権でも同じことでした。しかし、そんなことは知りませんでしたが、安倍政権の期間中大幅に開催規模が拡大したのは事実です。しかも、予算額を増やさず、決算額で調整するという姑息な手法が採られていました。安倍総理本人が指示したのではなく、役所に責任があると信じていますが、監督責任は免れないでしょう。せっかくの会ですので、開催方法を見直した上で継続することを検討してほしいと思います。

 それに対して、安倍事務所が開催した桜を見る会の前夜祭については、全くの言いがかりであると考えます。飲食を伴う政治パーティの飲食費の支払は、政治団体が収納する場合と飲食店に直接支払う場合があり、どちらでも構わないのです。実態のとおりに計上するのが正しいやり方です。会費がホテルの単価より低いという指摘もありましたが、この種のパーティでは、食数は参加人数よりもかなり抑えるのが普通です。いずれも何の問題もありません。
 
 第2次安倍政権の中で、10人の閣僚が辞任しているということです。決していいことではありません。職務に関連したものは僅かであり、ほとんどは自身の不明によるものですが、任命責任は免れません。きちんと身体検査はしているのですが、いろんなことが出て来ます。一層の綱紀粛正が必要でしょう。役所の不祥事も、続いています。役人出身の一人として、残念な限りです。役所のあるべき方向をきちんと示し、部下や後輩をきちんと叱れる官僚を育てていかなければなりません。

 第2次安倍政権を側で長く支えていただいたのは、閣僚等の皆さん、党役員の皆さん、官僚の皆さんらですが、いずれも人事が停滞していたことは指摘できると思います。各政権を通じて最初のメンバーがベストメンバーであることは多いのですが、人事の停滞は、組織の淀みを招きます。ここにも、人を切ることのできない安倍総理の優しさが表れています。しかし、人事を断行することにより、政権の求心力が強化されるのであって、適切な交代人事は必要であったと考えます。安倍総理にとっても、自民党全体にとっても残念だったことは、谷垣前総裁の引退です。安倍総理も、谷垣幹事長を本当に信頼していました。谷垣さんが御健康であれば、自民党の在り方は変わっていたかもしれません。


 今、新たな自民党総裁が選出され、新内閣総理大臣が任命されますが、言うまでもなく誰がその任についても大変なことでしょう。他の政治家と異なり、全てのポテンシャル(持っている能力)、全てのパフォーマンス(表現力)が試されることになります。得意分野などと言っていられません。そうした点から第2次安倍政権を振り返れば、安倍総理は、歴代総理に比べても、本当に良くやったと思います。浪人期間中にも相当に勉強し、総理になっても努力を続けていました。しかし、それを表に出さず、明るく強いリーダーシップを国民に世界に示してきました。病気での退陣は本当に残念ですが、体力が落ちると正しい判断に影響を及ぼします。国の安全保障を考えての潔い退陣であったと思います。どうかゆっくりと療養され、また元気に活躍する日の来ることを待ち望んでいます。


※ この論考は安倍総理在任中に執筆したものであり、職名等はその当時のものであることをお断りしておきます。

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「公用文作成の要領」改定へ(2020年3月27日)

 文化庁の文化審議会国語分科会国語課題小委員会が「公用文作成の要領」(昭和27年内閣官房長官依命通知別冊)の全部改正を検討しています。これは、国の公用文の書き方、中でも表記に関する基本的な通知であり、制定以来実に70年近くになります。途中、常用漢字表の制定(昭和56年)や現代仮名遣いの改定(昭和61年)に伴って必要な読み替えが行われていますが、基本的に制定時のままで今日まできました。しかし、昨今、ネット社会が台頭してくるとともに、政府広報も重要な政策手段となってきたことなどから、こうした社会状況の変化に合わせて全面改正が企図されたものです。

 現在、小委員会においてその報告案が審議されており、令和2年度末までには国語分科会の報告が行われる予定とされています。その後、政府として、報告を踏まえて「公用文作成の要領」の改定を行い、一定の時期を定めて施行することが検討されています。全面改正とはいっても、公用文の書き方は大きくは常用漢字表に基づいており、また、これまでのルールを一変させることは公務の継続性に支障を与えることから、具体的な内容において大きな変化があるわけではありません。時代の変化に伴い、公用文の書き方全体を整理し直すものと言ってもいいでしょう。

 そのため、公用文を法令のほか「告示・通知等」「記録・公開資料等」「解説・広報等」に分類し、「告示・通知等」にあっては現行どおり法令と原則同じ表記とする一方で、特に「解説・広報等」にあっては表記の弾力化を図るものとなっています。国や地方公共団体の広報の分野では、既にマスコミ表記を用いている所も多く、ある意味後追いとも言えます。以下、報告案の現段階における素案の概要について、公用文の表記に顕著な変化がある部分を中心に解説します。

1 基本的な考え方
 「告示・通知等」として告示・訓令・通達・通知・公告・公示等を含め、基本的に法令の表記と同様とすることとしています。「記録・公開資料等」として議事録・会見録・統計資料録・報道発表資料・白書等を含め、法令の表記と同様とするが、かみ砕いた表現とすることを求めています。「解説・広報等」として法令・政策等の解説・広報・案内・Q&A・質問等への回答等を含め、法令の表記をそのまま用いるのではなく、必要に応じて分かりやすい表記とすることもできるものとしています。

 ここで、法令を除く公用文の3分類が果たして妥当なものかどうかは、今後小委員会で検討されます。特に「記録・公開資料等」と「解説・広報等」の間に明確な線引きが可能かどうか、議論があるものと考えます。

2 表記の原則
(1)漢字の使い方
 当然のことながら、常用漢字表にない漢字や音訓は用いないのは、従来どおりです。ただし、「解説・広報等」においては、常用漢字表を用いて表記できる次のような語句については、振り仮名を付し、又は一部平仮名で書くことができるものとしています。
  例 語彙→語い 進捗→進ちょく 若しくは→もしくは 飽くまで→あくまで 狙い→ねらい

 常用漢字表の漢字で全部を書けない語句について、全部平仮名で書くもの(あっ旋→あっせん、石けん→せっけん等)、音訓が同じ他の漢字に書き換えるもの(いかす(活かす)→生かす、ひらく(拓く)→開く等)、表外漢字だけ仮名書きにし、又は振り仮名を付けるもの(改ざん(竄)、けん(牽)引等)などが以前よりも広範に整理されています。

 助詞、助動詞、補助動詞、形式名詞、指示代名詞、接続詞、接頭辞(「御」を除く。)・接尾辞などを原則平仮名で書くべきことは、現行と変わっていません。

(2)送り仮名の付け方
 送り仮名の付け方は現行と変わっていませんが、「解説・広報等」においては、これまでの「送り仮名の付け方」の送り仮名を省略するルールである「許容」ではなく、次のように「本則」を適用しても良い場合があるものとされています。
  例 売場→売り場 期限付→期限付き 手続→手続き 雇主→雇い主

(3)外来語の表記
 外来語については、「ベトナム」「バイオリン」などできるだけ「ヴ」を用いないで表記することとされています。ア列の長音については、今後長音符号を付けることになりました。
  例 コンピューター プリンター エレベーター プロパティー メモリー

(4)数字の使い方
 概数は漢数字を使うなど、全体の整理が行われました。

(5)符号の使い方
 横書きの読点に「、」を打つマルテン表記を採用しました。本来のマルカンマ表記は一部で徹底しておらず、世論の動向等にも配慮し、縦書き同様マルテン表記が導入されることになりました。報告案自体がマルテン表記で書かれています。
 これまで公用文で用いる区切り符号は「。」「、」「・」「「 」」「『 』」「( )」の6種でしたが、新たに「【 】」(隅付き括弧)が加えられました。さらに、「?」「!」などの外国の符号についても、説明が加えられました。

(6)表記に関する決まり
 新たに、日本人の姓名をローマ字表記するときは、「姓―名」の順とし、姓と名を明確に区別する必要があるときは姓を全て大文字とし、「YAMADA Haruo」のように書くこととされました。

 この後、「3 用語の使い方」「4 文章の書き方」において、公務員の文書作成業務に資する内容が意欲的にまとめられていますが、ルールとして現行と変わらないものや表記そのものの話ではないものも多く含まれているので、解説を省略します(下記参照)。

 以上国語分科会の報告案の現段階における素案について解説してきましたが、これが実際の「公用文作成の要領」の改定に至ったときにどのような内容になるの、今のところ必ずしも明確ではありません。今後、約70年ぶりの「公用文作成の要領」の改定をフォローしていきます。

 ※「公用文の在り方に関する成果物について(報告)」(素案)を参照したい方は、文化庁ホームページを御覧ください。

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憲法改正をどう進めるか(2019年10月9日)

 ここに来て、「憲法改正」の政治課題としての優先順位が上がってきました。決して今までもおろそかにしていたわけではないのですが、国際政治が冷戦の終結以降再び緊迫してくる中で、安倍政権においては、安全保障面の制度的充実を図るため、国家安全保障会議の改組、特定秘密保護法の制定、安全保障法制の整備などにまず注力してきたのです。その際、ある程度予想されたことではありましたが、安保法制において集団的自衛権の限定的認容の議論の開始に伴い、野党との間ではその合憲性の議論が行われるようになったのです。

 一部野党は、「憲法違反の安保法制を進める安倍政権の下では、憲法改正はできない。」と主張し、憲法改正の議論を拒むようになりました。与党側は、「憲法改正は国民のために国会が行う仕事であり、安倍政権とは関係ない。」と反論しましたが、野党がテーブルに着くことはありませんでした。最近、やっと野党の中にも憲法改正議論を拒むべきではないという主張が出てきたことから、最大野党の立憲民主党においても、「憲法改正議論そのものを拒んでいるわけではない。まず国民投票法の改正について決着させるべきだ。」という主張に変わってきました。

 では、それ以前はどういう状況だったかというと、第1次安倍政権の時、国民投票法(憲法改正手続法)を制定する段階では、憲法改正絶対反対の共産党及び社民党を除いて、与野党間で憲法改正について議論を進めようという合意があったのです。その後与野党入れ替わりながらも、共社を除く全党参加する協議会方式で憲法改正の手続面の議論を進めてきました。その成果が、公務員個人にも憲法改正運動を認める国民投票法の改正であり、参政権を18歳以上に引き下げる公職選挙法の改正などであったのです。

 野党は、憲法改正に関するTVコマーシャルの規制を主張しています。これに対して、与党は難色を示しています。憲法改正運動については、できるだけ自由に行えるよう規制をすべきでないと主張してきたのは、当の野党であったからです。しかし、TVコマーシャルが全く無制限でいいかどうかは、与党内にも議論があるところです。野党の主張をよく聞いて、理屈の通る話であれば、柔軟に対応する必要があります。その際、かねて与党が主張していた公務員の先導的な憲法改正運動の禁止についても、決着を付けるべきです。幾ら公務員個人の憲法改正運動を認めるとしても、公務員が先頭に立ってそれを指揮運営することは、公務の中立性に疑念を抱かれかねません。
 
 もう一つは、与党公明党との関係です。公明党とは、与野党協議会の場等を通じ、憲法改正の手続面では自公協力して進めてきました。一方、憲法改正の具体的内容については、公明党はずっと与党間協議を控えてきました。「国会の憲法審査会の場で議論が成熟するのを待つべきだ。」と、同党は一貫して主張してきました。自民党の中には、「これまで全ての国政上の懸案について、与党公明党とまずよく議論して決めてきた。憲法改正だけ与党間の議論ができないというのはおかしい。」という意見もあります。憲法改正絶対反対の共産党、社民党の委員がいる憲法審査会の中で、憲法改正原案を取りまとめるのは至難であるという主張もあります。

 これと関連して、「憲法改正原案」はどこで作るのかという問題があります。野党は憲法審査会で作るのが当然であるような主張をしていますが、国会法の規定はそうはなっていません。衆議院で100人、参議院で50人の賛同を得て憲法改正原案の案を議員提案できるのは、他の議員立法と変わるところはありません(通常の法案は、衆議院20人、参議院10人の賛同が必要)。まず憲法改正を推進する各党の協議会を設けて憲法改正原案の案を議論した上で、国会に提出する方が現実的な感じを持ちますが、与党は、野党の反発を恐れて踏み切れていません。この点について、自民党において、しっかりと議論すべきです。

 マスコミは憲法改正勢力が3分の2を確保できるかということをよく議論しますが、仮に衆参両院で3分の2の勢力を確保できたとしても、何を憲法改正項目とするかの合意については更に困難を伴います。保利元憲法改正推進本部長は、「憲法改正は、らくだを針の穴に通すよりも難しい。」と、聖書の言葉を引用して話されました。自民党は、自衛隊の保持、緊急事態対応、参議院選挙区の合区の解消及び教育の充実についての4項目について憲法改正のたたき台素案をまとめています。党内においては、憲法改正項目として正式の手続を経ていないものの、一応の党内合意を得ている案です。

 しかし、この案を一旦党外に持ち出すと、おそらく、憲法改正に賛成の政党からも多くの意見が寄せられることでしょう。それは民主主義を貫く上で仕方のないことであり、あらゆる知恵を振り絞って最大公約数を求めていかなければなりません。その上で、衆参両院で3分の2の憲法改正勢力を維持することは、まさに尋常の努力では達成できないことです。強力なリーダーシップの発揮と多くの国民を巻き込んだ支援体制の構築に期待しなければなりません。

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参議院議員選挙を終えて(2019年7月30日)

 参議院大分県選挙区で落選しました。御支援を頂いた皆さんには、心からお詫び申し上げるとともに、衷心から感謝申し上げます。
 安倍自民党総裁、二階幹事長以下党を挙げて、多くの国会議員にかつてないほどの応援態勢を敷いていただきました。
 衛藤征士郎総合選対本部長、阿部英仁県連選対本部長には、全力で御尽力いただき、自民党市町村支部及び市町村後援会の皆さんにも、大変な御協力を頂きました。勝った市町村ではもとよりのこと、負けた市町村でもそのことは十分受けとめられます。
 森竹治一総合後援会長始め各種友好団体の皆さん、個人後援会のいそざき陽輔新風会の皆さん、本当にありがとうございました。友党公明党及びその支援団体の皆さんからも、力強い御支援を頂きました。いずれも、かつてない規模の力の入れようだったと思います。
 それにもかかわらず敗戦したのは、全て私の不徳の致すところであり、力不足努力不足によるものです。

 敗戦は接戦の中でも陣営の誰もが予想していなかったことではありますが、私自身に悔いはありません。選挙期間中とても元気に遊説させていただきましたし、これだけの支援体制の中で負ければ、率直に言って仕方ありません。もちろん、自民党として、選挙戦略的に何が足りなかったのかきちんと分析する必要はあります。「選挙はスポーツとは違うのだから、負けて悔いがないと言っても、意味がない。」とすぐお叱りを受けそうですが、私の気持ちを正直にお伝えさせていただきました。

 一方で、せん越な言い方かもしれませんが、国とのパイプ役という観点からは、大分県は、大きく基盤を失いました。大分県には5人しか自民党国会議員がいない中で、1人減るというのは大変なことです。なお、衛藤征士郎、岩屋毅の両代議士のほか、見事再選を果たしたベテランの衛藤晟一参議院議員がいます。こうした皆さんに引き続きがんばっていただけると思いますが、他方穴見陽一衆議院議員の勇退が既に決まっています。次期総選挙や3年後の参議院議員選挙を展望し、自民党がどう失地を回復していくことができるのか、真剣に検討する必要があります。
 
 「敗軍の将、兵を語らず」とは言いますが、御質問もありますので、今回の選挙の概要について、簡単に説明します。大分県で、与野党の一騎打ちとなれば、歴史的にも厳しい接戦となることは当初から予測されており、今回の参議院議員選挙も正に接戦でした。「大分方式」と言って民主党と社民党の候補が交互に立候補する方法がかつてとられていましたが、今回は、野党が全国32の1人区で統一候補を立て、それに共産党までが参加する構造となりました。

 従来、第1区(大分市中心部)の負けを第2区(県南西部)及び第3区(県北)の勝ちで取り戻して接戦を制するというのが、自民党の選挙でした。今回、大分市で、約1万票の負けというのは許容の範囲であり、過去の状況を見るとむしろ善戦したと言ってもいいのでしょう。別府市での5千票強の負けは、やや多い感がしますが、相手候補の出身地であることを考えればやむを得ないところでした。いつもであれば、この大分市、別府市での1万数千票の負けは、他の市町村の勝ちで十分取り返し得るはずだったのです。

 ところが、その他の市町村では、いずれも接戦ではあったものの、私が勝ったのは佐伯市、津久見市、国東市、豊後高田市及び姫島村に限られ、日田市、中津市を始め多くの市町で負けました。これでは、勝ちようがありませんでした。相手候補は、大分市、別府市中心の選挙活動をしており、地方都市にはそれほど入っていないと聞いていました。それなのになぜこういう結果になったのか、今後の選挙のためによく分析しなければなりません。一つだけ指摘すれば、3年前の参議院議員選挙では、20万台後半の票の争いでした。それに対し、今回は、20万台前半の票の争いとなりました。投票率が大きく低下する中で、私たちの陣営が得票の最後の積上げができていなかったのではないかと、感じています。

 選挙は民意の結果であり、謙虚に受け止めなければなりません。しかし、どういう意味の「民意」であったのかは、少し時間を掛けて考えたいと思います。今後のことは、自民党関係者や支援者の皆さんの意見をよく聴いて、考えていきます。

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議員立法
(2019年4月25日)

 言うまでもなく国会は「唯一の立法機関」であります。したがって、法律を成立させることが最も重要な国会の仕事です。しかし、実際には、成立したほとんどの法律は内閣提出の法案(これを「閣法」と呼びます。)であり、いわゆる議員立法の法律(これを「議法」と呼びます。)は相対的に少ない状況にあります。最近の10年間の状況を見ると、提出数は閣法(条約を含む。)1,053本、議法1,165本とむしろ議法の方が多いにもかかわらず、成立数では閣法865本、議法240本と議法が相当少なくなっています。提出数と成立数が直接リンクしているわけではありませんが、成立割合を単純に計算すると、閣法82.1%、議法20.6%と圧倒的な差があります。このほかに起案しながら提出までに至らなかった議法もたくさんあったことでしょう。

 では、国会議員は議員立法をすることに余り熱心ではないのかというと、決してそんなことはありません。与野党を問わず多くの国会議員が、自らの政策を実現するため、党内グループで、あるいは超党派の議員連盟を結成して議員立法の立案に努力しているのです。それなのになぜ成立する議法が少ないかというと、国会に特有な議員立法のルールがあるからなのです。そのことについて、解説したいと思います。

 議員立法の成案を得たときには、衆参のどちらかの院に法案を提出します。これには一定の賛同者(衆議院は20人、参議院は10人。ただし、予算措置が必要なものは、衆議院は50人、参議院は20人)が必要ですが、それほど大きな支障ではありません。しかし、法案を実際に所管の委員会で審議入りしてもらえるかというと、そこには高いハードルがあります。

 まず、法案の所管委員会で、審議入りしてもらうことの意思決定が必要です。それを担保するため、各会派は、法案が提出されると自動的に議院運営委員会に趣旨説明要求(いわゆる「つるし」のこと。その解説は、こちらを参照してください。)を提出し、とりあえず審議入りを阻止する手続を掛けます。そのため、所管委員会の理事会で審議入りについて同意し、議院運営委員会理事会で「つるし」を下ろしてもらわなければ、所管委員会での審議は始まらない仕組みとなっています。この「つるし」は各会派がその意思により提出できるので、各会派は、それぞれ審議入りに対する拒否権を有していることになります。

 このことは閣法でも同じなのですが、閣法の場合は議院運営委員会の採決によって「つるし」を下ろすことも可能です。一方、議法の場合は、与党議員が提出しているものであっても、与党が党として提出しているまれな議法を除き、採決で「つるし」を下ろすことは原則ありません。私が国会議員になった頃は、もう少し審議入りの条件が緩やかだった気がしますが、最近では少なくとも所管委員会に理事を出している会派の一致した合意がないと普通審議入りの意思決定はできません。したがって、多数を有している与党の議法であっても、所管の委員会内で賛同が全会一致又はそれに準ずる状況にならないと、実際には審議に入れないのです。ましてや、野党提出の議法が与党の賛同を得て審議入りできるのは、極めてハードルが高い状況にあります。

 所管委員会で、各会派の賛同が全会一致又はそれに近い状態の場合は、予定の提案者に変え、当該委員会の委員長を提案者とする「委員長提案」が行われます。委員長提案の場合は、意見の一致が前提となっているので、法案の実質質疑が省略される例となっています。一院で委員長提案の法律が本会議で可決されると、他院でも当該委員長が提案者として出席して委員会が開かれ、この場合も実質質疑が省略される例となっています。

 与党グループの提出する議法の場合は、できるだけ野党の賛同を得るため、提出前に相当の時間を掛けて法案の修正協議が行われます。これが成功した場合は、その法案が所管委員会で審議入りし、可決される可能性が大きくなります。一方、野党が提出する議法の場合は、例外はありますが、政府与党に対抗する目的で提出されるものが多く、その場合は与党の賛同が得られず、「つるし」が下りないので、審議入りすることはまれになっています。その場合は、法案を提出したことそのものに意義を求めることになります。

 こうした議員立法をめぐる仕組みには、大きな問題点が二つあります。第一に、与党グループが提出する議法は多数決で可決される可能性が高い法案であるにもかかわらず、野党が「つるし」の権利を有している中で、全会一致に近い状態になければ委員会で審議入りされません。このことは、多数決という民主主義の原理に反するものではないかという疑問があります。第二に、野党の提出する議法は、与党が賛同するまれな例を除き、原則法案の審議入りには至りません。国会は議論の場であり、否決される可能性が高い法案であっても、与野党できちんと議論することが民主主義のルールに沿うものではないかという疑問があります。正反対の方向から二つの疑問があるのです。

 私は、国権の最高機関として有している立法権を自ら制限している現状は、おかしいと思います。議法についての国会議論をもっと活発にするため、議法の委員会での審議入りの要件をもっと緩和すべきであると考えます。特に衆議院と比べ政権と一定の距離を保つべき参議院において、その主要な役割を担うべきであると考えています。しかし、一方で、提出された議法の全てについて委員会で審議入りすることになると、審議時間の観点から、閣法など与党として優先的に成立させなければならない法案の審議に大きな影響を及ぼします。ここが難しいところなのです。したがって、どういう議法を優先的に審議入りするか交通整理をするためのルール作りが必要ですが、これが本当に難問です。このことについての私案は、次の機会に論じたいと思います。

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最低賃金を考える
(2019年3月26日)

 政府の経済政策アベノミクスは大きな木に育っており、有効求人倍率を始め各種の経済指標が好転してきました。しかし、まだまだ国民の多くが「景気回復」を実感していないのも、事実でしょう。アベノミクスの果実を分配するためには、賃金の上昇が必要であり、個々の人の可処分所得を増大させることが不可欠です。地元を回ると、「仕事は増えているが、人手不足で大変だ。」という声をよく聞きます。デフレ経済を脱して、景気が拡大方向にあることは、間違いありません。そうした中、地方の中小企業においては、十分な賃上げをするだけの体力がまだまだない状況にあります。

 地方における人手不足の原因の一つに、最低賃金の地域間較差を指摘する意見があります。最低賃金は、正規労働者かパート労働者かであるかにかかわらず、原則全ての労働者に適用される基準であり、違反には罰則があります。最低賃金は都道府県ごとに地方の審議会の決定に基づいて定められており、それには時間当たり200円を超える地域間格差があり、平成30年度で最高は東京都の985円、最低は鹿児島県の761円となっています。大分県は、賃金の高い順にA、B、C及びDの4ランクに分けられた一番下のDランクに属し、鹿児島県と1円違いの762円であって、同額の県は11県あります。

 このように最低賃金が地域によって異なると、特に外国人労働者などでは最低賃金の高い地域に流出するのではないかという意見があります。そこで、最低賃金を全国で一元化し、地域による賃金格差をなくすべきであるという主張がなされています。最低賃金は労働者の最低の生活を保障する人権保障としての機能を有しているという説が法曹界では有力となっており、そうであれば最低賃金が地域で異なっているのはおかしいとも指摘されています。しかし、政府は、現実の地域ごとの賃金格差が大きい現状では、最低賃金を全国で一元化するのは難しいと、慎重な態度を採っています。

 政府の考えも理解できますが、各都道府県の最低賃金は、国の審議会が示すA、B、C及びDのランクごとの目安額、すなわち引上げの参考額に基づいて地方の審議会が定めており、それが賃金格差を拡大させているという指摘もあります。例えば平成30年度において目安額はAは27円、Bは26円、Cは25円、そしてDは23円と最低賃金が高いほど高くなっており、地方の審議会が定める最低賃金の格差は年々拡大しています。最低賃金を全国で一元化するのは直ちには困難であるとしても、格差は縮小する方向に持っていかなければおかしいのではないでしょうか。

 そうした中で、最低賃金の引上げの話をすると、中小企業の経営者の皆さんは余りいい顔をしません。それだけの余裕がないのです。地方における最低賃金を引き上げていくには、中小企業に対する支援策なしには実際難しいでしょう。何ができるか、考えてみたいと思います。法人税の減免ということがすぐ浮かびますが、中小企業はそのほとんどが赤字法人であり、この方法はほとんど効き目がありません。

 まず、雇用調整交付金などを活用し、一定規模以下の小規模な企業であって直接最低賃金の引上げによる賃金上昇の影響を受けるものに対しては、直接的な賃金助成をすることが考えられます。ただし、このような助成は、財政的見地からは、相当絞ったものにする必要があります。もう一つは、社会保険料の企業負担の減免が考えられます。年金や健康保険等の社会保険料については、本人と企業が原則折半で負担しており、企業負担が大きく、企業の負担感が根強くあります。賃金を引き上げれば社会保険料も増大するので、その部分の一定割合を国が助成することが考えられます。これは、有効な手段ですが、財政負担も大きなものになります。

 厚生労働省が生産性向上を図った企業に対して業務改善助成金を交付しており、一定の効果が出ています。しかし、主として製造業のような業種を念頭に置いて設計されたものであり、最低賃金に近い賃金を受けている労働者は特にサービス業に多いことから、そうした労働生産性を上げにくい業種に対しても助成ができるよう、予算額を拡大してより要件の緩和を図っていく必要があります。さらに、店舗や工場の不動産賃貸料に対する施策も考えていく必要があるでしょう。 

 こうした施策を通じ、きめ細かく中小企業を支援しつつ、最低賃金の向上、賃金の引上げを図っていくのであれば、中小企業の皆さんの理解を頂けるのではないかと考えます。政府では、平成29年3月に策定した「働き方改革実行計画」で最低賃金の全国加重平均を1,000円とするという中期的目標を掲げ、毎年3パーセント程度の最低賃金の引上げを後押ししています。それを実現しつつ、地域間格差が拡大しないようにしていくことが極めて重要であり、そのための具体的な中小企業対策の構築が必要です。

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糖質制限ダイエットの勧め3(2019年1月9日)

 農林水産副大臣在任中は立場上遠慮していましたが、昨年退任したことから正月ネタとして第3回をしたためてみました。なお、「糖質制限ダイエット」は、飽くまで「制限」であって、私自身も、朝食昼食ではしっかりと御飯やパンを食べていますので、御理解頂きたいと思います。

 糖質制限ダイエットは、糖質のある食べ物の摂取を制限することにありますから、油類を制限する必要はないというのが最大の特色です。それがカロリー制限ダイエットとの大きな違いです。よく聞かれるのが「お酒はやっぱり太りますよね。」ということですが、「お酒だけでは絶対に太りません。」とお答えしています。

 御飯1杯の糖質は、あるメーカーの計算では、55.2グラムです。一方、日本酒1合の糖質は8.1グラムしかないので、ざっと計算して、御飯1杯食べるのと日本酒7合飲むのがほぼ同じということになります。日本酒を毎晩7合飲む人はそんなにいないでしょうから、「お酒だけでは太らない。」と申し上げているのです。もちろんこのことは、ダイエットの話であり、肝臓への負荷は、また、全く別の話です。言うまでもなく酒のつまみも別の話であり、粉を付けて揚げた鶏の唐揚げを大量につまみにしたのでは、ダイエットはできません。

 ビールも、350ミリリットル1缶の糖質は、10.9グラムであり、大したことはありません。ただし、ビールの飲み過ぎは、尿酸値を増やし、痛風の原因となります。白ワインは、100ミリリットルでわずか2.0グラムです。赤ワインも同程度であり、ポリフェノールの摂取にいいと言われています。ワインには、糖質制限上も分があります。さらに、蒸留酒である焼酎やウィスキーには、全く糖質はなく、幾ら飲んでもそれだけで太ることはありません。ただし、繰り返しになりますが、肝臓への影響は異なる話です。

 では、つまみには何がいいのでしょうか。乳製品にはほとんど糖質がありませんので、ワインにチーズというのが最高の組合せです。国産ワインのレベルが相当に上がってきましたから、それを国産のカマンベールチーズで頂くというのがいいのではないでしょうか。副大臣在任中も、もっと国産の安いチーズの生産を拡大すべきだと言ってきました。それに飽きたら、ナッツ類(木の実)には糖質はないので、ピーナッツやアーモンドなどがいいつまみになります。飛行機に搭乗してお酒を注文すると、まずおかきのつまみが出されるのですが、いつも「ナッツに変えてください。」とお願いしています。

 もう少ししっかりとしたつまみがほしい人には、糖質制限ダイエットの観点からは、牛肉のステーキを食べても、太ることはありません。もちろん、食べ過ぎには注意してください。過ぎた量を摂取すると、一般論が通用しなくなります。豆腐や納豆、枝豆には糖質はありませんが、そのほかの豆類には糖質があります。

 ちなみに、飲食後の締めの御飯やラーメンが欲しくなるのは、おいしいからではありません。アルコールと食事を一緒に摂ると、肝臓はアルコールの分解を優先するので、糖の分解に手が回らず、逆に血糖値が下がり、お腹が空いてくるのです。しかし、いずれ一緒に食べた食事の糖質も分解されてきますから、締めの御飯やラーメンは過剰な糖質を供給し、肥満や高血糖の大きな原因となります。宴会の締めの料理は、控えたいものです。

 最近、「グルテンフリー」ということが言われ始めています。小麦から生成されるグルテンにアレルギーを持つ人がいて、その対策として行われ始めたことですが、グルテンはアレルギーを持つ人以外にも様々な支障を及ぼすと言われています。糖質制限ダイエットの観点からも、小麦は糖質食物ですからできるだけ控えた方がいいのですが、小麦を使った料理は日本人の大好きなものが多く、なかなか大きく制限するのは難しいのです。

 例えばパン以外にも、スパゲッティなどのパスタ、うどん、ラーメン 餃子、中華饅頭などの皮、お好み焼き、たこ焼き、ピザ、揚げ物、カレーやシチューのルー、ケーキのスポンジ、麦焼酎やビール、発泡酒、十割でないそばなど様々なものに小麦粉が使われています。まだアレルギーを持つ人以外への影響は医学的に完全に解明されていないので、今「グルテンフリー」を実行すべきであるとは言いがたいのですが、糖質制限ダイエットの観点からは、小麦の摂取量を制限することは必要なことです。

 復習になりますが、糖質制限ダイエットとは、糖質の多い御飯、パン、麺、芋、カボチャ、果実などの摂取を制限することです。糖質換算で1日130グラム以下程度に押さえるといいと言われています。飽くまで「制限」であって、摂取しないことではありません。制限であれば、おかずをたくさん採ってもいいので、お腹が空くことはありません。しかし、糖質制限ダイエットは、比較的早く成果が出ますが、そのうち必ず壁に突き当たります。糖質制限ダイエットには、限界があるのです。そのときは、カロリー制限ダイエットに移行しなければなりませんが、おかずなども制限しなければならず、結構苦しいことです。

 糖質制限ダイエットだけでも、健康的なレベルには、それなりに達すると思います。私は、国会議員としての最大体重は83キログラム超でしたが、糖質制限のおかげで、今は74キログラム程度になっています。でも、どうしても、73キログラム台にはなりません。どうやらこの辺りが壁のようです。学生時代は柔道やラグビーをしていたので、卒業時の体重は72キログラムでした。何とかそこまで下げたいのですが、あと少しのところが何とも難しいのです。一方、人間ドックの数値は、一部のものを除き、ほとんど改善されてきました。当面、カロリー制限ダイエットには入らず、糖質制限ダイエットを続けていきたいと思います。

 糖質制限ダイエットの勧め
 糖質制限ダイエットの勧め2

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