(平成28年(2016年))

◎過去の「私の主張」は、左のメニューから御覧ください。
◇大統領選挙から何を学ぶべきか(12月21日)
◇「新農政」へ向けて(11月22日)
◇海岸漂着物処理推進法―加藤紘一先生の想い出(9月20日)
◇糖質制限ダイエットの勧め2(8月1日)
◇地方単独事業の必要性(7月20日)
◇大分県内における熊本地震対策について(6月3日)
◇行政監視委員会(5月19日)

◇集団的自衛権を巡る違憲論議について(4月4日)
◇表現の自由と放送法(3月24日)
◇同一労働同一賃金の原則の真意(3月8日)
◇憲法改正の余り重要でない項目(3月4日)
◇憲法改正はどうなるのか(1月27日)
◇軽減税率の導入に伴うインボイスの発行(1月14日)
◇糖質制限ダイエットの勧め(1月6日)

大統領選挙から何を学ぶべきか(12月21日)

 11月8日に行われたアメリカ合衆国大統領選挙において、大方の予想に反して共和党のトランプ候補が当選しました。意外な結果だと思われた方も多かったことでしょうが、選挙は時の運、結果は厳粛に受け止めなければなりません。選挙結果が出た直後、クリントン候補は、「私たちが思っている以上にアメリカは分断されている。」と述べました。私は、この発言は、日本にとっても重要であると考えます。

 選挙の帰趨に大きく影響したのは、白人労働者層であると言われています。いわゆる中間層としてアメリカの経済を支えてきた人たちです。しかし、製造業の国際的地位の相対的低下に伴い、中間層の失業者が増え、麻薬中毒者も増大しているとの分析もあります。一方で、一部の経営者層に富の分配が集中し、労働者層の所得が伸び悩んでいます。さらに、外国人移民が増大し、人口の3分の1を超える状況にあります。そうしたことに不安と不満を有する白人労働者層が政治の変化を求め、変化の可能性が少しでも大きいと思われるトランプ候補に傾斜したものと思われます。

 もちろん、ここで、アメリカ大統領選挙結果の功罪を論じようとしているわけではありません。言いたいのは、格差社会の拡大は、思いも寄らない社会変動をもたらすということを肝に銘じておくべきだということです。我が国でも、長く、終身雇用体制の下、大多数の国民が中流意識を持ち、国家を支えてきました。しかし、今、労働は流動化し、非正規雇用の問題が深刻化しているのは、否めません。ここにきちんと政策の光を当てていかないと、我が国でも、健全な中間層の崩壊が始まります。

 高度成長期には、中卒者や高卒者は金の卵や銀の卵と呼ばれ、企業が競って採用するとともに、大卒者の初任給も決して高くはなく、格差を感じるほどのことはありませんでした。そして、終身雇用体制の下、55歳から60歳までの定年を迎えるまで安定して雇用され、相当額の退職金を支給されていました。それが現在では、世界的な傾向ではありますが、期間雇用や非正規雇用が増大しています。そうした中、正規労働者と非正規労働者の間の賃金格差が生じ、その平均賃金の割合は、EUで約8割、日本で約6割、アメリカで約3割とも言われています。

 非正規だからという理由のみで低賃金で済むというのは、全くおかしなことです。私は、野党時代から「同一労働同一賃金の原則」を遵守すべきだと訴えてきましたが、やっと安倍政権の下でそれを実現する見通しができてきました。これは、欧米のように同一職種の賃金を統一するというようなものではなく、非正規がゆえに差別的賃金にするというようなことを禁止するという日本型のものになります。

 国民は、特に都市住民は、「居場所」を求めています。都市と地方の人口の移動が激しくなく、農林水産業が経済の主体であった時代には、人々は、不自由であったにしても、農山漁村に「居場所」を持っていました。都市化の進行とともに、人々は競争の場である都会へと向かったのです。それでも、経済が成長し、終身雇用制度が確立している間は、少しがんばれば、温かい巣となる「居場所」を見つけることができました。しかし、低成長時代を迎え、賃金の上昇とともに、人件費の増大が経営の重荷になってくると、期間雇用の増加など労働の流動化が進み、非正規労働が増大してきました。それに伴い、「居場所」を確保できた人と、そうでない人の分離を生み、それが所得の差に直結し、格差を助長する事態となっています。

 これは、歴史的な原因があるにせよ、政策の失敗であります。世界的には、このことが、移民排斥などナショナリズムを助長しているのです。保守政治の要諦は、健全な中間層の維持にあります。戦後政治がそれを維持できたのも、多くの人が中流意識を持ち続けることができたからです。そのことが、ナショナリズムでもソーシャリズム(社会主義)でもない日本の保守政治の礎だったはずです。同一労働同一賃金に懸念を表明している経営者も見られますが、もっと大きな目で歴史の流れを見てもらわなければなりません。格差社会は、最大の消費者層を失うことにつながるのです。

 健全な格差のない経済をもたらすには、何を置いても国民の生活水準を維持できるだけの経済成長が必要です。そのためにこそ、格差を解消するための賃金の引上げが必要です。実際、人手不足からパートの賃金が上がり始めています。最低賃金1,000円はとても払えないという主張がかつて強かったのですが、現にパート賃金は時給1,000円を超える勢いになっています。経営者にとっては苦しいことですが、賃金の上昇は、消費の拡大を通じ、いずれ経済成長をもたらします。がんばってほしいと思います。

 戦後の日本は、世界に余り例のないことですが、多数の国民が中流意識を持つ中で、その意識を共有する健全な中間層によって経済成長が支えられてきました。このことを決して忘れてはなりません。格差社会は、必ず社会の混乱をもたらします。アメリカ大統領選挙は、そのことを象徴していると考えます。

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「新農政」へ向けて(11月22日)

 以下の私の主張は、新風会だより第21号に掲載した記事と同じものです。

 8月の内閣改造で期せずして農林水産副大臣を拝命しました。国会議員になった頃には農業もよく勉強したものですが、最近は安全保障関係の仕事が多く、また、3年近く務めた内閣総理大臣補佐官を退任したばかりでしたので、意外な人事でした。拝命した以上は、日本の農林水産業の振興のため、しっかりと努力していきたいと思います。

 日本の農林水産業は、今大きな改革期を迎え、構造改革が大きな課題となっています。これまでも何度も議論されてきた課題ですが、ようやく農林水産業を営む人の側からも理解が示されるようになってきました。以下、農林水産業を通じた共通の課題もありますが、分かりやすくするため、話を農業に集中したいと思います。

 「新農政」とも呼ばれていますが、一体何のための改革なのでしょうか。それは、言うまでもなく、「もうかる農業」への転換を図るものなのです。それぞれの農家も収入を上げるため一所懸命にがんばっているのですが、それでも跡継ぎがいないという話をよく聞きます。農業が悪いわけではないのです。若い人が田舎に帰って就農するだけの所得が見込めないからなのです。実際、ある程度の所得を上げている農家には、必ずと言っていいほど跡継ぎがいます。農業所得を上げ、農業を今後とも持続可能な産業にすることが、新農政の目的なのです。

 そのためには、様々な観点からの対策が必要ですが、私は、国際化と消費者ニーズへの対応が重要であると考えています。

 我が国の食料生産額は、世界第10位です。これは、人口順位におおむね沿うものです。一方、食料輸出額は世界第60位とかなり低水準にあります。我が国の農林水産業がいかに内向けの産業であるかがよく分かります。日本の食料は、味質ともに高品位のものです。これを世界に売り出さない手はありません。政府としては、食料輸出額を東京オリンピックの前年の2019年までに1兆円を超えるよう努力しています。輸出では大分県の日田梨も有名ですが、北海道十勝の長イモも10億円を超える輸出額を誇っています。

 日本にはたくさんの美しい水田があり、各地が競っておいしいお米の生産に努力しています。日本の原風景は、田んぼにこそあります。一方で、国民のお米の消費量は、つるべ落としで減少しています。他の多くの主食や副食が市場にあふれているからです。減反の目標値を示すことは、今年で最後になります。今後は、農家が自らどんな作物が消費者のニーズに応えるものであるのか、考えてほしいのです。農業も、経営です。それ抜きには、「もうかる農業」はあり得ません。

 そのためには、農業が経営として成り立つよう大きな農業を育てていく必要があります。農地の集約と経営の法人化は不可欠です。若い人が最初から担い手として農業経営に乗り出すことは、難しいことです。まず、生産法人の労働者として農業に参加できるようにすべきです。すぐには難しいかもしれませんが、週休2日で勤務できるようになれば、多くの若者が農業法人を就職先として選択することでしょう。東日本大震災の津波被害を受けた地域でも、土地改良事業により農地の集約が進み、多くの生産法人が経営を担っています。

 また、農家独自の努力では解決しがたい課題もあります。肥料、農薬、農機、段ボールなどの価格が他国と比べて高いのではないかという資材価格の課題があります。現在、与党において様々な観点からの調査や議論が行われています。他方、将来担い手となる若い優秀な農業者をどのようにして育て、供給していくかも、極めて重要な課題です。

 こうした議論をすると、条件不利地域である中山間地では、農地の集約など困難であり、課題の解決は難しいとの主張が聞かれます。もちろん、中山間地においても、農地の集約や法人化の努力は必要です。しかし、農家の高齢化などに伴い、難しい所もたくさんあることと思います。そうした所については、平地の農業と同じように考える必要はなく、特別な配慮を続けていくべきであります。

 このような多様な議論を政府与党で続けています。改革の目的は、「もうかる農業」への転換です。農業を経営する皆さんに、経営者としての視点を持っていただくことが不可欠です。それを支援するために、全作物を通じた収入保険制度の創設などを検討しています。どうか、農家の皆さんはもちろんのこと、「新農政」へ向けた改革の道を国民全体の課題として議論していただきたいものです。

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海岸漂着物処理推進法―加藤紘一先生の想い出(9月20日)

 9月9日に元自民党幹事長、内閣官房長官加藤紘一先生が御逝去されました。自民党史の一時代を築かれた先生であり、誠に痛恨に耐えません。私が初当選の頃には、まだ御在職でありましたが、新人議員とは全く格の違う大先生であり、遠くから御尊顔を拝見していました。

 ところが、ある日、私の事務所に加藤先生の事務所から「先生が礒崎先生に会いたいと言っているので、お越し願えないか。」という電話が突然かかってきました。加藤先生と私は院も、派閥も違い、直接の面識もないのに、何の御用だろうかといぶかしく思いました。もちろんお断りするわけにもいかず、先生の所に直ちに参上させていただきました。

 加藤先生から単刀直入に「海岸をきれいにする法律を作りたいんだ。あなたにやってもらたいのだが、どうだね。」というお話がありました。私の専門は財政や地方自治、そして安全保障でありましたから、環境関係は経験がなく、この話にも正直申し上げて全く面食らったところです。しかし、国会議員になりたてでまだ議員立法に参加したことがなかったので、いいチャンスを頂いたと思い、私は、「分かりました。」と即答しました。

 後に山形県のNPOが海岸の浄化に努めていることを知ったのですが、なぜ私が議員立法の要を担わなければならないことになったのか、今日まで一度も御説明はありませんでした。加藤先生の御指示の下、プロジェクトチームのメンバーを決め、先生が座長に、私が事務局長に就任しました。そして、関係省庁を集め、初回の会議を開きました。

 海岸と言っても法律上たくさんの海岸があり、国土交通省の旧河川局が管理する一般海岸のほか、同省港湾局の港湾海岸、農林水産省の農業海岸、水産庁の漁港海岸などがあり、加えてプライベートビーチもあります。法案の主管省庁を環境省と決めるのも、大変なことでした。海岸の管理の責任を有する海岸管理者は、一般に、こうした省庁の縦割りの下、都道府県知事や市町村長が担っています。

 私は、当初から、「海岸に漂着したごみを誰が片付けることとするかを決めるのが、この法案の最大の課題である。」としていました。そして、「それは、海岸管理者以外には考えられない。」と主張していましたが、各省庁はなかなか首を縦に振りません。後で財政負担などが降り掛かることを危惧していたのです。私は、「反対がある省庁は、個別に私の所に来るように。」と伝えたところ、どこの省庁のお役人も結局現れず、自説で押し切りました。

 法案の審議が進んでくると、私たち省庁出身の国会議員は具体的な法的効果のある条文に気を遣うのですが、国会議員の中には目的であるとか、理念であるとか、むしろ法律の抽象的な部分にこだわる人が多いのに気付きました。「海岸の環境を守る法律だから『白砂青松』、そんな言葉を法律に規定すべきだ。」などのような意見がたくさん出て来ました。

 最も苦労したのが、法律のタイトルです。「海岸漂着物等の処理等の推進に関する法律」。T議員から「そんなタイトルでは、国民にアピールしない。もっと法律の趣旨が分かるようなタイトルにすべきだ。」という意見が出されました。私は、「法律のタイトルは簡潔にするのがルールであり、叙述的なものにはできない。」と反論しました。しかし、これには加藤先生は味方をしてくれず、「礒崎さん、議員立法なんだから、余り法制のルールにとらわれず、もう少し工夫できませんかね。」とおっしゃいました。先生にたしなめられ、致し方なく現行法の「美しく豊かな自然を保護するための海岸における良好な景観及び環境の保全に係る海岸漂着物等の処理等の推進に関する法律」という長いタイトルを提案しました。それでも、T議員は納得しかねるという様子でしたが、最後は我慢してもらいました。

 法案を衆議院に提出後、環境委員会で審議が始まるまでに一定の苦労はありましたが、衆参両院とも全会一致で可決成立させることができました。その後、ちょうど経済対策の補正予算案の編成があり、加藤先生と私で自民党の政調会長や財政当局とも掛け合い、この法律を執行するため都道府県に基金を設置する予算など60億円もの額を確保することができました。これには、環境省のお役人もびっくりしていました。

 今では、国民の皆さん、地方公共団体の皆さん、環境NPOの皆さんなどに喜ばれる法律を作ることができたと自負しています。加藤先生の御指導の下、私の国会議員人生の第一歩が記せたものと、先生の御訃報に接しつつ、感慨深いものがあります。法律の附則には、この法律施行後3年を経過したら法律の見直しを行うという規定があります。しかし、まだ一度も実質的な改正はできていません。これは立法責任者である私の怠慢であり、加藤先生の御遺志を体し、所管の環境省をそろそろ叱咤激励しなければならないと考えているところです。

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糖質制限ダイエットの勧め2(8月1日)

 最近多くの人に糖質制限ダイエットを勧め、実践していただいています。テレビ番組でも、よく採り上げられるテーマとなってきました。当たり前のことですが、何事も「過ぎたるはなお及ばざるが如し」であり、やり過ぎは健康のため良くありません。「糖質制限」とは、飽くまで「制限」であり、御飯やパンの摂取を全く行わないという意味では決してありません。日本人のカロリー摂取は6,7割を糖質に依存しており、急激な糖質摂取の減少は問題です。また、こうした主食には繊維質が多く含まれており、体に重要であるとともに、糖分の吸収にも役立っています。適度の摂取は、是非続けてほしいものです。

 効果についてもよく尋ねられますが、効果は人それぞれで当然異なってきます。ただし、全くダイエットをしていない人である程度太っている人であれば、まじめに糖質制限を実践することにより、短期間で劇的な変化が生ずることが多いはずです。1か月そして3か月もすれば、相当な体重が減少するはずです。しかし、それを越えると、ダイエットには必ず壁が付きものです。いずれかの時点で、糖質制限ダイエットによる体重の均衡点に達します。それでも、まじめに糖質制限を続けていれば、多少の増減はあってもその体重を維持できます。更にダイエットを進めたいのであれば、カロリー全体を制限するとともに、一定強度以上の運動を行うことが必要になるでしょう。

 もう一度復習すると、糖質制限ダイエットとは、御飯、パン、麺類等の炭水化物の主食の摂取を削減することです。御飯で言えば、一食当たり茶碗半杯程度で我慢するのです。その一方で、肉や魚、野菜などは、芋カボチャ類を除いて普通に食べても構わないというところが、糖質制限ダイエットの特色です。もちろん、肉や魚は幾ら食べても構わないというのは俗説であり、そんなことにはなりません。主食が少ないと最初はお腹が空きますが、お腹が空かなくてできるダイエットはありません。「胃が小さくなる」というのも俗説らしいですが、だんだん慣れてくるので、おかずで紛らわすことができるようになります。

 先ほど言ったように、それでも必ずダイエットの壁に当たります。私の場合、昨年の今頃は82,3キログラムの体重であったのですが、現在75.8キログラムを中心に上下500グラムの範囲で増減を繰り返しています。当面の目標は74キログラムに置いているので、もう少し減らしたいところです。そのためには、総カロリー摂取量を減らすとともに、定期的な運動が欠かせません。それを目指してがんばってはいるのですが、政治家には食事会が付きものであり、今一つのところで74キログラム台の記録が出ません。

 総カロリー制限となると、肉や魚などのおかずも含めてバランスよくカロリーの削減を図っていかなければなりません。これは、なかなか難しいことであるとともに、自分の健康状態もきちんと見極めなければなりません。本稿は「糖質制限ダイエットの勧め」でありますから、それより先のことは、またいずれ実践してから御報告します。

 栄養学の要諦はバランスであるということは、ダイエットにおいても常に念頭に置いておかなければなりません。糖質ダイエットについては、医学界や栄養士学会を巻き込んでの大議論が行われている最中であります。一方、一説には、そういう論争は既に決着がついているはずだという指摘もあります。ただし、長年カロリー計算を天職としてきた栄養士の皆さんにとっては、簡単に結論が出せる問題ではないという現実もあります。

 糖質制限ダイエットの有効性については、人それぞれの身体状況に応じて様々ですから、特に「病気をお持ちの方は、お医者さんや栄養士さんに御相談ください。」というのが正しい答えなのでしょう。しかし、医療から離れて、ダイエットの観点からも、多くの国民に対する分かりやすい説明が必要であると考えます。肥満に起因する成人病の予防は、高齢化が進む中、国家としても極めて重要な課題であります。

 糖質制限ダイエットの勧め
 糖質制限ダイエットの勧め3

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地方単独事業の必要性(7月20日)

 「アベノミクスの恩恵は、地方には行き渡ってない。」という声をよく聞きます。景気回復の足音は大都市では聞こえても、地方の中小都市には聞こえないと言われます。一般に、景気回復は大都市から始まり、それが伝播するように地方の中小都市に及ぼしていくことは事実なのですが、私は、それ以上に末端における毛細血管に支障が生じているのではないかと考えています。

 それは、一言で言えば、地方自治体の元気がなくなっているのではないかと思うのです。そう一刀両断に言ってしまうとお叱りを受けるかもしれませんし、地方自治体も様々な行政分野で元気な地域づくりに努力していることと思いますが、私の言いたいのは、「経済主体」としての地方自治体の位置付けが後退してきているのではないかということです。

 国の予算も約100兆円、地方の予算も約100兆円です。従来、国の財政と地方の財政は車の両輪だと言われてきました。しかし、地方も財政再建に追われているのはよく分かりますが、社会資本整備の面での地方の元気のなさを感じるのは私だけではないでしょう。社会資本整備のピーク時には、36兆円にも上る公共投資が行われており、そのうち公共事業(国の直轄事業及び補助事業)が12兆円、地方単独事業が24兆円と、何と地方の事業の方が2倍もあったのです。それが現在では、公共事業が6兆円、地方単独事業が6兆円と、合計で12兆円となり、全体で3分の1まで低下するとともに、特に地方単独事業は4分の1まで減少しています。

 公共事業は比較的工事額が大きいので、ゼネコンや大手の企業が落札することが多いのです。地方の中小の企業は、従来地方単独事業で潤ってた部分が多いのですが、そのパイが極めて少なくなり、倒産も後を絶ちません。私が若い頃、旧自治省で旧建設省の担当をしており、「国が事業をしないのならば、地方単独事業で行いますよ。」と同省の担当官にふっかけていたものですが、今では「地方単独事業」という言葉すら知らない人が増えてきました。

 かつて、地方単独事業には、地方債を90パーセント充当し、その元利償還金の75パーセントを地方交付税措置することにより、おおむね3分の2の補助率の国庫補助事業と同等の財政措置が講じられていました。そのため、箱物の整備など若干モラルハザード的な財政支出が行われるとともに、政府の中でも地方交付税の補助金化ではないかという批判を受けました。こうしたことから、このような財政措置が順次縮減され、現在では緊急防災・減災事業債にのみ類似の仕組みが残されています。

 したがって、国の補助金に頼らない、地方独自の判断による社会資本整備事業が非常に行いにくい環境となっており、地方自治体の自由な発想に基づく「経済主体」としての役割が減退し、車の両輪の片側しか回っていない状況にあるのではないでしょうか。少し前までは、地方においては、県庁や市役所が最大の企業だと言われてきました。今、その企業の役割が十分果たせていない状況にあります。しかし、地方財政や地方経済の専門家が少ないことから、デフレギャップの元凶の一つと考えられる地方単独事業の大幅縮小に社会の目が向いていません。

 そこで、地方創生の施策とタイアップするような形で、地方債の対象事業を柔軟に拡大し、その元利償還金に対する地方交付税措置を復活させることが必要です。その際、従来と同様な財政措置率では再びモラルハザードをもたらす可能性もあることから、もう少し抑え気味に事業費の2分の1以下の措置率にするのが適当でしょう。こうして、地方自治体による社会資本整備が再開すれば、地方経済は必ず元気を取り戻し、地方の明るさが取り戻せることでしょう。

 なお、後年度の地方交付税特別会計の負担も気になるところですが、アベノミクスが成功し、景気回復が全国に行き渡れば、国税地方税の増収の方がきっと大きなものとなるはずです。今は、デフレギャップの解消にこそ全力で傾注する必要があります。

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大分県内における熊本地震対策について(6月3日)

 以下の私の主張は、新風会だより第20号に掲載した記事と同じものです。

 4月14日(木)21時26分頃熊本地方で震度7の非常に大きな地震が発生しました。その後余震が続いていましたが、4月16日(土)未明の1時25分頃再び震度7の地震が発生し、大分県内も含め被害が大きく拡大しました。地震の規模では、阪神淡路大震災を超えるものと言われています。

 大分県内では、震度6強であった由布市湯布院町、庄内町と別府市各地で大きな被害が生じるとともに、竹田市、日田市、玖珠町、九重町などでも被害が生じています。大分市でも震度5強の揺れがあり、近年に記憶がないことです。

 今回の地震は、熊本県熊本地方、阿蘇地方及び大分県中部の各地域において異なる地震が発生し、かつ、余震が長く続いたのが特徴です。しかし、大分県では、4月29日以降県内を震源とする震度3以上の地震はなく、沈静化の気配が見られます。

 熊本県と比べれば物的被害は小さいのですが、家屋、農地、公共施設の被害のほか、観光地が主な被災地であったためホテル旅館の宿泊客のキャンセルが続き、観光被害が甚大であることが大きな課題の一つとなっています。

 私は、2回目の地震の当日に由布市に入り、市役所で首藤市長から災害概況を聞くとともに、直ちに最大の被災地である同市湯布院町で避難所の湯布院小学校を訪ね、被災者を見舞うとともに、関係者から状況を聞きました。その後、町内を回り、瓦の落下やガラスの破損などの被害を受けているお宅を訪ねてお見舞いをしました。あわせて、陸上自衛隊湯布院駐屯地を訪ね、災害出動に当たる自衛官を激励しました。

 翌日も、自民党大分県連で災害視察団を結成し、他の国会議員と共に再び由布市を訪れ、避難所のほか、ホテル旅館の被害状況などを視察しました。4月18日(月)から自民党の平成28年熊本地震対策本部が始まり、まず避難者対策を早急に講ずるとともに、大分自動車道別府速見間の早期開通を要請しました。あわせて、ホテル旅館に対する緊急融資の実施等を求めました。

 4月23日(土)は、別府市に入り、被災したホテル旅館を回り、お見舞いをしました。その後、同市内の避難所を訪れ、被災者を激励しました。翌4月24日(日)は、熊本県に入り、阿蘇市や南阿蘇村の被災地を視察するとともに、活動中の自衛隊員を激励しました。

 4月26日(火)は、姫野商工会議所連合会会長ら大分県の経済5団体の代表の皆さんと共に都内で要請に回り、自民党の谷垣幹事長や二階総務会長に面談するとともに、総務省自治財政局、国土交通省鉄道局・道路局、中小企業庁及び観光庁を訪ねました。5月5日(木)に再度由布市湯布院町に入り、町中を歩いて被災状況を尋ねました。

 さらに、5月11日(水)に全旅連の井上九州ブロック会長らから観光被害対策の要請を受けました。その後、5月17日(火)の本会議で7,780億円の熊本地震対策の補正予算案を可決しました。5月29日(日)に、由布市庄内町に入り、家屋被害の実態を視察するとともに、り災証明の認定について意見を聴きました。

 大分県内のみならず、九州全域で観光被害が拡大しており、個人客はやや戻ってきたものの、団体客や外国人客はまだ低迷しており、十分な対策を講ずる必要があります。観光クーポンの発行などが予定されているので、活用策を検討してまいります。

 あわせて、家屋被害についてはより柔軟な対策が必要であると考えており、被害認定の一層の弾力化を図るなど被災者に寄り添った対策を講ずるため、自民党の熊本地震対策本部などで、引き続き、必要な発言を続けます。

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行政監視委員会(5月19日)

 1月冒頭召集された通常国会当初から、私は、行政監視委員長を拝命していますが、どのような委員会であるのか御説明申し上げ、併せて参議院の委員会制度について解説したいと思います。

 行政監視委員会については、国会法第41条第3項第15号により常任委員会として位置付けられ、参議院規則第74条第15号により所管事項として@行政監視に関する事項、A行政評価に関する事項及びB行政に対する苦情に関する事項が規定されています。法制的にはそうなのですが、この「行政監視」という規定の下、行政一般を審議することができることとされ、実質的には所管事項のないオールマイティな特殊な委員会となっています。すなわち、行政に関することであれば何を議論してもいい委員会なのです。

 何を議論してもいいという意味では予算委員会と同じなのですが、予算委員会は予算案の審査という建前があり、内閣総理大臣に対する質疑ができる点が異なっています。決算委員会も、同様であり、決算の審査という建前があります。これに対し、所管事項がないゆえに行政に関して何を議論してもいいのですが、他の委員会との最大の違いは、そのため審議する議案もないことです。議案とは予算案とか法律案などのことをいい、それらが行政監視委員会に上程されることはなく、委員会で議案の採決が行われることもありません。

 各回の行政監視委員会でも、実質的な議題が定められることは少なく、いわゆる「一般質疑」が行われ、運用上も何を質問してもいいこととされています。それでは、所管も、議案も、議題もない全く権限のない委員会のように感じられるかもしれませんが、行政監視委員会には、一般質疑のため内閣総理大臣以外の国務大臣に対し任意に出席を求めることができるという大きな権限があります。個々の質問者の判断で質疑のためどの大臣でも任意に呼べるのは、決算委員会の全大臣を対象とした総括質疑を除けば、予算委員会と行政監視委員会だけなのです。

 そういう意味で行政監視委員会はスーパー委員会なのですが、議案を取り扱わないがゆえに国会日程上議案を取り扱う他の委員会の開催の方が優先されるので、なかなか開催できないという大きなデメリットがあります。行政監視委員会が設置された当時は、参議院を正に議論の府とする目標の下、一国会で十数回開催されたこともありましたが、最近の厳しい国会日程の中では多くても通常国会で3、4回の開催に限られています。野党からはもっと多く開催すべきであるという要望がされており、ごもっともな御意見だと考えますが、国会日程上なかなか難しいのが現状です。できるだけ多くの開催に努力していかなければならないことは、言うまでもありません。

 参議院の委員会には、常任委員会、特別委員会、調査会及び審査会があります。常任委員会は第1種と第2種に分かれ、第1種常任委員会とは、内閣委員会、総務委員会など各省庁を縦割りで所管する委員会のことをいい、現在11委員会が置かれています。これに対して、第2種常任委員会とは、それ以外の常任委員会をいい、縦割りの第1種常任委員会に対し横割りを所管する予算委員会、決算委員会、行政監視委員会及び国家基本政策委員会があります。このうち国家基本政策委員会は、党首討論を行う委員会であり、衆議院と共催されます。このほか、第2種常任委員会には、議院の運営を所管する議院運営委員会及び懲罰委員会があります。懲罰委員会は、懲罰事案がなければ開催されません。

 特別委員会は、各会期ごとに本会議の議決により設置されるものであり、常任委員長が本会議で選挙される(実際は、議長が指名する)のに対し、特別委員長は委員の互選により選任されます。現在災害対策特別委員会など7特別委員会が置かれており、会期ごとの設置手続はとられていますがほぼ恒常的に置かれており、所管事項については議案審議も行います。調査会は、参議院独自の制度であり、任期の長い参議院で長期的な政策を検討するために設けられたものであって、議案の審議は行いません。現在、国の統治機構に関する調査会など3調査会が置かれています。そのほか、憲法審査会、情報監視審査会及び政治倫理審査会の3審査会が置かれており、それぞれ特別な事項を審議する委員会とされています。

 委員長ポストは、ドント式で野党にも配分されますが、議院運営委員長及び予算委員長は、必ず与党議員が務めます。議院運営委員長は、院内では議長、副議長に次ぐ地位にあるものとされ、筆頭委員長の格付けがされています。予算委員長は、長老議員が務めるのが慣例であり、別格の扱いです。その他の委員長に上下はありませんが、最近の参議院自民党の人事では、特別委員長には若手を抜てきする傾向があり、第1種常任委員長には党の部会長経験者クラスが充てられています。予算委員長を除く第2種常任委員長には、中堅幹部クラスが充てられます。調査会長や審査会長には、ベテラン議員が充てられます。

 常任委員長は、参議院の役員であり、他委員会でも質問できない先例となっています。そのため、私も、総理補佐官退任後も質問させてもらっていません。どうぞ、御理解ください。

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集団的自衛権を巡る違憲論議について(4月4日)

 元最高裁判所判事の藤田宙靖(ときやす)東北大学名誉教授が、自治研究2月号に「覚え書き―集団的自衛権の行使容認を巡る違憲論議について」と題する論文(以下「藤田論文」といいます。)を発表し、話題となっています。その趣旨とするところは、憲法学者による違憲論議が必ずしも十分に尽くされてはいないのではないかというものです。
 私も、昨年、このホームページに、「かみ合わぬ憲法論」(1)〜(3)を掲げたところであり、また、藤田論文にも私の名前が何度か引用されています。大変分かりやすい論文ですが、なお一般の皆さんには難しい点もあるので、私見を交えながら要約させていただきたいと思います。

 平和安全法制について、衆議院憲法審査会の参考人質疑で長谷部恭男教授が「違憲と考える」と述べて以来、憲法学者らによる違憲論議が高まってきましたが、藤田論文では、「必ずしも、一貫した精緻な議論が展開されているようには感じられない。」としています。それは、「法規範論理上のルール(公理)を明確に踏まえた上での理論的展開が、必ずしもなされていないから」であると述べています。

議論の出発に置かなければならない法解釈論上の「公理」

 「公理」とは、第一に憲法の解釈も法解釈の一つであり、「法解釈である以上、仮に従来のそれが誤ったものであるとすれば、それを正しいものに改めるのは当然」であること、第二に「国家機関が法を適用するに当たっては、先ずは、自らが適用する法の内容の確定が必要であって」、明確な最高裁判例がない場合は「差し当たり、自らの解釈するところによらざるを得ない」こと、第三に「憲法法規の内容について、国家として最終的な判断権を持つのは最高裁判所であって、他の国家機関による解釈は、その意味において、国家の判断としては暫定的なものである」こととしています。
 「このような理論的枠組み自体は、何ら「立憲主義」に反するものではなく」、安倍政権が「なんら憲法違反はないと主張するのも、まさにこのような理論的根拠があるからである」としています。

「公理第一」に関して

 まず、上記公理第一について、違憲であるとする見解が、「憲法によって縛られる政府が、自らの手によって従来の憲法解釈を変更するのは、立憲主義に反する」と主張しているが、「それだけでは余りにも粗雑である」としています。「従来の説明を見る限り、「法的安定性」が最も重要な論拠とされて」いるが、「具体的にいかなる要請なのかが、より一層明確にされるのでなければな」らないとしています。
 長谷部教授の「従前の「政府解釈」を一内閣が勝手に変更することは、「法的安定性」を害するとし、この「法的安定性」の意味につき、「政府解釈」に対する信頼が揺らぐ」という発言の意味については、3通りの理解の仕方が考えられるとしています。

 @ 「政府が一度憲法解釈を示すや、そのこと自体によって直ちにその不可変更的効力が生ずる」という意味です。しかし、例外的に「事情変更の法理」が認められており、「およそ如何なる状況の下でも一切の変更も許されない、ということをいうためには、それを正当化する更なる論拠が必要である」としています。
 A 従来の政府解釈は、「長期にわたって広く承認され、それに基づき、現実にも法的・社会的に一定の秩序が形成されてきた」という意味です。しかし、「従来の解釈が前提として来た状況と全く異なる状況が出現した」場合において、「ただこれまでの積み重ねがあるからというだけで、従来の解釈を変更することが許されないと言えるかという問題がある」としています。私の「『法的安定性は関係ない。国民の安全確保が問題なのだ』という」発言は、「理論的にはまさに、そこのところを衝くものだ」としています。
 B 「違憲の理由として「法的安定性」が主張されるとき、実はそこでは、「従来の解釈」こそが内容的に正しく、政府による「新解釈」は誤りであるという実体的判断が、既に前提とされている」という意味です。そうであれば、「結局、旧解釈は誤った解釈であると言えるかという…問題に帰結することとなる」としています。

「公理第二及び第三」に関して

 上記公理第二及び第三について、藤田論文は、「「憲法の番人である法制局が従来の憲法解釈を変えることは許されない」という主張には、法理論的な根拠が見出せない」としています。法制局は、「単なる内閣の補助機関であるに過ぎない」からです。
 また、憲法解釈の変更は、「本来よるべき憲法改正手続を回避するための便法であって、権限の濫用であり、それ故に違法・違憲であるといった主張がある」が、「権限の「濫用」は違法であるということは一般的に言えても、何がそこでいう「濫用」に当たるかは、かなり精緻な議論を必要とする問題なのであ」り、今回の閣議決定についても、その違憲性を「経緯からのみ「権限の濫用」と断ずるのは、規範論理的にはいささか粗雑に過ぎる議論であると言わざるを得」ないとしています。

閣議決定並びに法案の内容の合憲性について

 以上を前提として、藤田論文は、「今回の事態を巡る憲法問題は、結局のところ、集団的自衛権の行使を容認する閣議決定及び法案の内容自体が憲法の正しい解釈と言えるか否かという、実態法上の問題を抜きにしては、論じ得ない」としています。そこで検討されなければならないのは、政権のいう憲法解釈の「変更」の意味であり、3通りの考え方があり得るとしています。

 @ 「集団的自衛権の行使は認められないとする旧解釈は、憲法9条の解釈としてはそもそも間違っていたので、改めて正しい解釈を行う」というものである。
 A 「旧解釈は、かつては正しいものであったが、現在では状況の変化により誤ったものとなったので、新しい状況に適合した解釈を新規に行う」というものである。私の「『法的安定性は関係なく、実効的な安全保障の問題なのだ』という発言は、まさに、この論理構造を前提としたものと理解することができよう」としています。
 B 「旧解釈は、現在でも基本的に誤ったものであるとは言えないが、現在の状況により即したように、その内容を一部解釈し直す必要がある」というものである。これは、「「憲法の内容」について新解釈が行われたのではなく、「憲法の内容についての解釈」についての新解釈が行われたのである」としています。

 私の主張はAに該当するとし、AとBの違いはいささか微妙な感じを受けますが、私の主張の趣旨は、「自衛権の行使は必要最小限度にとどまらなければならないという憲法解釈は、今日の平和安全法制に至るまで戦後一貫して変わっていない。しかし、何が必要最小限度であるかということは、国際情勢の変化に伴って変わるものであり、そこは「法的安定性」の問題とは直接関係ない」ということであり、政府が「解釈の当てはめの変更」という言い回しで答弁していることと平仄が合うものであって、必ずしもAではなく、Bに近いのではないかと考えます。

 藤田論文は、以上の分類をした上で、「上記三つの論点が明確に区分されることなく、雑然と議論されているように見受けられる。そのために、双方の議論はすれ違い、いわば政府・与党の「言い抜け」にも利した感がある。」としています。

 また、「自民党(特に高村副総裁)及び政府は、結局のところその理論的根拠を唯一最高裁砂川判決に求める結果となっているが、これが全く的外れの議論であることは、既に多方面からの指摘がなされているところである」とし、藤田論文はこれを支持していますが、この点は、私たちの主張の趣旨がきちんと伝わっていない点でしょう。

 私は、ツイッターなどで、「高村副総裁は、集団的自衛権の容認の根拠が砂川判決にあるとは言っていない」としてきました。すなわち、砂川判決は、「我が国の存立を全うするため必要な自衛のための措置は、国家固有の権能」であると断じましたが、「自衛のための措置」の内容については具体的に示さず、政府においてその解釈が担わされてきたのです。その解釈を具現化したのが集団的自衛権の行使を容認しなかった昭和47年の政府見解であります。
 今回は、国際法上「集団的自衛権」と呼ばれるものの中にも「自衛のための措置」と言えるものが、極めて限定的な状態、すなわち我が国の存立を脅かす明白な危険がある場合に限ってあり得るという見直しを行ったのです。従来「自衛のための措置」の解釈は政府が担ってきたものであり、砂川判決に戻って集団的自衛権の根拠を求める必要はないのです。藤田論文にあるように「砂川事件判決が「集団的自衛権の行使」を「排除」していない」ことで十分なのです。

 また、藤田論文は、「旧解釈が、政権が主張する国際的安保環境の変化により、憲法9条について「誤った解釈」であるというほど現状不適格のものとなったか否かが問題とされなければならない」としつつ、「この辺りの判断は、基本的に、国際政治論の分野の問題であり、安全保障政策の在り方に関わる問題であって、そのような問題の適否を法律学の分野で、果たしてまたどのような形で取上げ得るかということは、それ自体、充分な検討を要する困難な問題である」とも指摘しています。
 そこで、究極的に重要な問題は、「「旧解釈」を誤っているとして基本的に放棄することはしないが、現状においては、これに部分的な修正を加えることが適切である」という考え方の適否であるとしています。その上で、「旧解釈」の「基本的躯体を残した上での部分的修正に過ぎない」と言えるか否かに問題の枢要はあるとしています。

 安倍政権が従来の政府解釈を変更しつつその大枠から離れるものではないと説明しているのは、「「集団的自衛権」の行使は、我が国の平和と安全を守るために必要最小限のものに絞られているから」という理由によるものであるが、自衛権発動の三要件の中で「必要最小限度」を定めた第3要件は「武力行使の程度に関わる要件であって、自衛権発動の前提条件に関わる要件ではな」く、第1要件である「「我が国に対する武力攻撃が発生した場合」に限られるということを、厳密に考え、そこに一ミリたりとも例外は認めないという考え方を前提とすれば」、「従来の解釈との間には、単に量的な差異ではなく、理論的に質的な差異が生じていることになる」としています。

 指摘に間違いはないのですが、昭和47年の政府解釈においても、「必要最小限度」という用語は、第3要件のみでなく、自衛権発動の三要件全体を包含する意味においても用いられており、ややこしいのですが二段階で同じ用語が用いられているのであって、政府が憲法解釈上重要視しているのはむしろ後者の方であり、論者の中にも勘違いがあるのではないかと思われます。

 結論として、藤田論文は、「政府・与党の「新解釈」も、憲法9条の下、集団的自衛権の行使は許されないという原則を全否定しているわけではなく、ごく限られたケースにおいては、その可能性も排除されるわけではない、という論理に立って」おり、「およそ理論的に「質的な連続性」を欠くものと決め付け得るか否かという問題は、なお残されている」としています。
 さらに、「「自国に対する直接の武力攻撃は無いが、自国と密接な関係にある外国に対する武力攻撃がなされていて、それが実質自国に対する武力攻撃と同じ意味を持つような場合であるとか、自国に対する武力攻撃が引き続き起こることが確実であるような場合に行われる武力行使」については、どう考えれば良いのか、という点は、非常に微妙な問題となることを否定できない」としています。

 その上で、新解釈に否定的な識者の中にも新解釈について「集団的自衛権の行使を認める場合でも、その範囲は非常に狭く限定的な事態において行使が認められたにすぎない」と読めると指摘しているものもあるが、国会答弁を前提として考えると「新三要件というのは、現実にほとんど制限的効果を果たさない」という批判があることも紹介しています。また、「「憲法の枠内での法整備を実現させるためには、提案者の発言から独立して、法案の文言を緻密に分析することが必要だ…」という指摘は、…極めて重要であるように思われる」としています。

結びに代えて

 結語として、藤田論文は、「仮に憲法学がなお法律学であろうするならば、政治的思いをそのまま違憲の結論に直結させることは、むしろその足下を危うくさせるものであり、法律学のルールとマナーとを正確に踏まえた議論がなされるのでなければならない」としています。この言葉が法律学会に大きな波紋を与えています。

 私も、藤田教授の勇気ある発言に大きな感銘を受けました。もちろん、藤田教授と憲法の解釈論において完全に一致しているわけではありません。しかし、平和安全法制を巡る憲法論、なかんずく集団的自衛権の合憲性の議論が、立場の違いや結論の可否は別にしても、全くかみ合っていないと感じていたところであり、その点を法律学の専門家の立場から明確に分析いただいたことは、天啓を得たような感動を覚えました。この論文は法律学の専門家に向けて書かれたものであり、なお一般の皆さんには難解の部分もあると考えましたが、その意味からあえて紹介させていただきました。

 以上、私の意見に係る部分は個人的見解であり、政府及び自民党の正式見解とは関係ありません。

 かみ合わぬ憲法論(1)
 かみ合わぬ憲法論(2)
 かみ合わぬ憲法論(3)

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表現の自由と放送法(3月24日)

 表現の自由は、憲法が保障する基本的人権の中でも最も重要なものです。それは、人類が幾多の困難を乗り越えて獲得した民主主義を堅持する上で、言論の自由を保障することが極めて重要だからです。そのため、新聞には、戦前のようにそれを規制する法律はなく、所管官庁もありません。

 しかし、新聞が何を書いてもいいわけではありません。人権の行使は、憲法の定める「公共の福祉」に沿うものでなければなりません。新聞でも、「事実無根」のことを書いたり、人を「誹謗中傷」したりすることはできません。くわえて、民法の規定する「公序良俗」に反してはなりません。逆から言えば、こういうことがなければ、新聞は何を書いてもいいのです。万が一こういう原則に反しても、それを行政的に規制する方法はなく、人権を侵害された人は民事訴訟による救済に訴えることになります。

 これに対し、放送には、放送法という行政法上の規制が掛かっています。放送は電波を用いますが、そのためには一定の周波数帯を放送局が独占的に使用することが必要です。周波数帯は限りがあることから「公共財」と考えられており、放送事業は、国の特別な許可を得て行う「特許事業」とされ、放送法という行政法の規制の下に置かれているのです。そこで、放送は、新聞と異なり、「政治的公平性」が求められているのです。

 しかし、このことは、世界共通のことではありません。放送事業の多チャンネル化が進んでいる国では、この「政治的公平性」を解除しようという動きがあるからです。これも一つの考えであると思われますが、我が国の国情に合うものかどうか十分な議論が必要です。仮にそうするというのであれば、きちんと放送法を改正し、放送には「政治的公平性」が担保されていないことを明らかにすべきでしょう。

 放送法第4条第1項各号に政治的公平性等を求める放送番組の編集準則が定められており、そこで「政治的公平性」を求める観点から、「政治的に公平であること。」「報道は事実をまげないですること。」及び「意見が対立している問題については、できるだけ多くの角度から論点を明らかにすること。」が規定されています。この規定について、BPO(放送倫理・番組向上機構)は法規範ではなく「倫理規範」であるという意見を述べていますが、法治国家の観点からとても容認できることではありません。総務省は、同項の規定は「法規範」であることを明確にしています。法規範であるとしたら表現の自由を定めた憲法に反するというおかしな意見がありますが、基本的人権の行使は公共の福祉に反してはならないこともまた憲法の定めるところです。

 たしかに、放送法第3条は、「放送番組は、法律に定める権限に基づく場合でなければ、何人からも干渉され、又は規律されることがない。 」と規定し、放送番組編集の自由を定めていますが、「法律に定める権限に基づく場合でなければ」とも規定しており、公権力からいかなる規整も受けないことを定めたものではありません。他方、放送における報道の自由はできる限り尊重すべきであり、それぞれの放送局の自律によって放送番組の編集準則が遵守されることが基本であります。そして、放送局が自主的に共同設立したBPOにおいてそのことが担保されるのも、適切な仕組みであると考えます。

 しかし、放送局の自律だけでは放送番組の編集準則が遵守されない場合も、あり得ないわけではありません。放送局は、東京や大阪のキー局ばかりではなく、各都道府県にローカル放送局があり、ラジオ局まで入れればかなりの数があります。万が一放送局の自律的手段によって「政治的公平性」が守られず、放置し得ないような余程の事態が生ずれば、放送法の所管官庁である総務省は、法治国家として当然行政的な規整を行わなければなりません。その最初の手段としては、強制力のない「行政指導」を行うことになるのでしょう。放送法に行政指導の根拠規定がないのにけしからんと勘違いしている人がいますが、行政指導は、行政手続法の規定に基づいて行われるものであり、放送法の規定に基づいて行われるものではありません。

 野党の質問に対して総務大臣が一般論として法律の建前を答弁し、放送法違反の場合は電波法に基づく「停波もあり得る。」と述べたものですから、物議を醸しています。今述べたように、「政治的公平性」は基本的に放送局の自律によって遵守されるべきものであり、それでも守られない万が一の余程の事態が生じたときには、まず「行政指導」で対応すべきものなのです。期限に付きにせよ、停波というのは、放送事業者の息の根を止めることになりかねないものですから、通常あり得ることではありません。万万が一そういうことがあり得るとすれば、十中八九の人がそれを肯定する異常な放送事業者に対するものに限られるでしょう。放送事業者となるには厳しい審査があり、常識的にはそういうことはあり得ないのですが、法律の規定は万一の場合にも備えておかなければならず、建前としては行政処分もできることとされています。

 中央省庁再編を行った橋本行革の時に、放送行政の管理については第三者機関として電波監理委員会を設置すべきではないかという議論がありました。それも一つの考えであり、そこに現在のBPOのような仕事を委ねることも考えられます。しかし、そうなると、政治から独立した第三者性は担保されるものの、公権力による放送の管理が前面に出ることにもなりかねないので、慎重な検討が必要です。

 「政治的公平性」の話をすると、すぐに「政府の批判はマスコミの使命である。」という人たちがいます。そのとおりです。「政治的公平性」とは、放送法に定めるとおり「意見が対立している問題については、できるだけ多くの角度から論点を明らかにすること。」であり、国論を二分するような政治的課題については賛否両論を公平に伝えなければならないということなのです。「政治的公平」にとって、この賛否両論があるという事実を公平に伝えることが一番重要なことなのです。実際の放送には、政府の主張をきちんと伝えないで、批判だけしているものがたくさんあります。

 賛否両論を公平に伝えた上で、政府の主張や理屈付けがおかしいと考えるのならば、それを批判することは、放送でももちろん許されます。「政府を批判するのはけしからん。」などと愚かなことは、誰も言っていません。しかし、それを越えて、例えばニュースキャスターが「法案廃止のための国民運動を起こしましょう。」とまで言えば、やはり放送の「政治的公平性」が遵守されているとは言えません。「特定の立場を放送事業者が支持することは、当然あり得る。」としているものがありますが、私は、「支持」というのは、賛否の表明を越え、「政治的同調」を意味する言葉であると考えます。その間に「政治的公平性」の重要な境界線があることは、主張しておきたいと考えます。

 繰り返しになりますが、国論を二分するような政治的課題について、「政治的公平性」が求めているのは事実として賛否両論を公平に報道することであり、その上で賛否両論に対して批評を加えることが放送事業者に許されないわけではないのです。論理としての批判は全て許されるのであって、それが政治的色彩を帯びることが問題なのです。識者の中には、このことを勘違いしている人が多いように感じます。さらに、こうした話と行政機関による「行政指導」や「行政処分」の実施の話とは、相当かけ離れたものであることを付け加えておきます。放送事業者に求められる「政治的公平性」の話と、行政機関の「行政処分」の話を直結して議論しようというところに、大きな誤解が生じています。

 いずれにせよ、民主主義を堅持する上で、表現の自由、言論の自由は、極めて重要な価値です。ただし、それは、マスコミのためにだけある価値ではなく、国民にとって、その代表者である政治家にとっても、重要な価値であることは理解してほしいものです。

 以上、個人的見解であり、自民党の公式見解とは関係ありません。

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同一労働同一賃金の原則の真意(3月8日)

 アメリカの大統領選挙で、本命とみなされている民主党のクリントン氏は別としても、共和党の政治経験のないトランプ氏や民主党の社会主義を説くサンダース氏が気を吐いています。どういう背景があるのでしょうか。国民の反乱とまでは言いませんが、既成権力に距離を置く動きが始まっていることは否めないでしょう。

 世界の国々で、今格差が課題となっています。いろいろな格差問題がありますが、特に顕在化しているのが、正規職員と非正規職員の格差の問題です。ヨーロッパでも様々な労働争議が起きており、その賃金格差は、7割から8割程度であると言われています。それに比べ、アメリカでは、非正規職員の賃金は、3割程度であると言われています。これは、極めて深刻な状況です。では、日本はどうかと言えば、その間の5割程度であり、決していい状況ではありません。

 私たちが生まれた昭和30年台は、ほとんどの人がまだ貧しく、生活を少しでも向上させるため額に汗して働いていました。そして、家庭の中の電化製品も次第に増え、車やクーラーも買えるようになり、最近では、パソコンやスマホも多くの人が所有するようになりました。しかし、その間に賃金が上昇するとともに、経済面での国際競争が激化し、企業は生産拠点を海外に求めました。日本の企業は、人件費の上昇や国際競争の中で、従来の正規雇用を維持できなくなったのです。そして、総賃金を更に削減するため、雇用を期間職員、派遣職員やパート職員などの非正規職員に置き換えるようになったのです。

 そのこと自体、すなわち労働の流動化は、正に時代の流れであり、致し方ない面もあります。しかし、非正規職員であれば賃金が安くていいというのであれば、相当に間違った考えであります。全く同じ労働をしているにもかかわらず、「非正規」というレッテルを貼れば賃金が安くて済むというのであれば、それは「差別」と言わざるを得ません。

 日本は、古来より平等な価値観を持った国でした。戦後の復興が終わった昭和の後期には、多くの国民が「自分は中流である。」という意識を持っていました。この平等な中流意識が安定した政治を生み、安定した経済をもたらしてきたのです。国民皆平等という価値観が、国家の安定に寄与することは言うまでもありません。決して、日本を「格差社会」にしてはならないのです。

 我が国における「同一労働同一賃金の原則」を推進することは、その中心をなすものです。この原則は、法理であり、極めて当然のことを言っているに過ぎません。企業側に若干の懸念がありますが、原則の裏の同一労働でなければ同一賃金でなくていいのも、すこぶる当然のことなのです。また、この原則の適用に当たっては、日本では同一企業内の平等を求めるものになると考えられています。ヨーロッパでは、同一労働の例外として様々な合理的な理由が認められており、制度は極めて常識的なものとなっています。年功や資格によるスキル(技能)の違いに伴う待遇の差異も、当然認められているのです。

 ここで大事なことは、同一労働でないものとして差を付けることができる合理的な理由がある場合において、どの程度の差異が認められるかということです。このことの研究がまだ我が国では不足しています。同一労働か否かということだけであれば、話はそれほど難しくないのです。同一労働ではないと認められる場合の賃金水準について、法律で数値目標を示すことは難しいと考えますが、やはり何らかの規範的基準を示すべきであると考えます。労働法は判例に委ねる分野が多いのも特徴ですが、全てを判例に丸投げすれば、我が国では混乱をもたらすでしょう。

 企業の中には、生産性が向上しないと総賃金を増加させることは困難であり、格差是正もままならないと心配する向きも確かにあります。しかし、だからといって差別を放置したままでいいということにはなりません。正規職員の理解を得る努力をすることも、重要でしょう。同一労働同一賃金の原則の推進は、言うまでもなく非正規職員の待遇改善を目的としているものであることは、明言しておきます。

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憲法改正の余り重要でない項目(3月4日)

 変なタイトルにしましたが、憲法改正というとすぐ第9条の改正かと言われます。しかし、そんな政治的に重要な改正点ばかりではなく、憲法改正を行うのであれば、この際きちんと改正しておきたい項目が幾つかあります。実際に改正できるかどうかは別にして、そういう余り議論されていない項目について、説明しておきたいと思います。

 まず、前文に、「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。」という部分があります。この部分については、国家の自然権である自衛権を放棄したのではないかと保守的立場の人からよく批判されますが、そのことはさておき、「諸国民の公正と信義に信頼して」は、日本語としておかしいのではないかとの指摘があります。「公正と信義を信頼して」ではないかと言われています。

 次に、第6条の天皇の国事行為の各号列記の中に「国会議員の総選挙の施行を公示すること。」とありますが、「総選挙」とは衆議院議員選挙のことのみを指すものであることから、現に参議院議員通常選挙についても天皇による公示が行われていることにも照らし、誤りが指摘されています。また、同条で天皇の国事行為には内閣の「助言と承認」が必要であることとされていますが、天皇の行為に対し「承認」とは礼を失するのではないかという指摘があります。ちなみに、自民党の憲法改正草案(以下単に「草案」という。)では、助言と承認を合わせて一語で「進言」と改めています。

 人権の規定については、現行憲法が基本的にGHQ(連合軍総司令部)の起案した英文草案を翻訳したものであるため、天賦人権説に基づいた表現が多いのも気になるところです。天賦人権説がどうのこうのというのではなく、同説はバックグラウンドとしてキリスト教の影響を受けており、日本の憲法としては、宗教的に中立な表現が適切であると考えます。

 例えば第11条に「国民は、すべての基本的人権の享有を妨げられない。この憲法が国民に保障する基本的人権は、侵すことのできない永久の権利として、現在及び将来の国民に与へられる。」とありますが、誰が「妨げる」のか、誰が「与える」のかよく分からないところです。草案では、「全ての基本的人権を享有する。」「侵すことのできない永久の権利である。」でいいのではないかと考えているところです。

 また、第18条に「何人も、いかなる奴隷的拘束も受けない。」と規定されていますが、我が国にかつて奴隷的拘束ということがあったのでしょうか。この表現はポツダム宣言から来ていますが、日本に奴隷という制度はなかったはずです。草案では、「何人も、その意に反すると否とにかかわらず、社会的又は経済的関係において身体を拘束されない。」と改めたところです。

 第24条第2項に、家族に関する規定の法律委任の規定がありますが、その冒頭に「配偶者の選択、財産権、相続、住居の選定、離婚並びに婚姻及び家族に関するその他の事項に関しては、」とあり、「配偶者の選択」と「婚姻」にダブりがあって、「離婚」の方を「婚姻」よりも先に掲げていることに違和感があります。草案では、現行民法の規定順に「家族、扶養、後見、婚姻及び離婚、財産権、相続並びに親族に関するその他の事項に関しては、」と改めたところです。

 第36条に「公務員による拷問及び残虐な刑罰は、絶対にこれを禁ずる。」とあり、草案では「絶対に」を削除して単に「禁止する。」としたところですが、異議を唱える人たちがいます。しかし、単に「禁止する」と規定しても、絶対に禁止されるのは、当然のことです。

 次に、統治機構についても、幾つか指摘をすることができます。

 先に、第53条に「いづれかの議院の総議員の4分の1以上の要求があれば、内閣は、その召集を決定しなければならない」と規定されていますが、その期限の定めがなく、召集時期を巡って政府野党間で大議論になりました。これは、憲法の欠缺(けんけつ)であると考えます。地方議会については、地方自治法に要求による臨時議会の招集は20日以内という定めがあります。それに倣って、草案では、召集期限を「20日以内」と定めたところです。

 第63条に「内閣総理大臣その他の国務大臣は、両議院の一に議席を有すると有しないとにかかはらず、何時でも議案について発言するため議院に出席することができる。」とあります。「両議院の一に議席を有すると有しないとにかかはらず」とは、一体どういう意味でしょうか。議席を有していてもいなくても変わらないのならば、規定をする意味は全くありません。誤った規定であると考えられます。

 これは決して「重要でない項目」ではないのですが、憲法に内閣総理大臣の臨時代理の規定がないのも、問題です。第70条の規定により内閣総理大臣が欠けたときは内閣は総辞職しなければならないのですが、それまでの間の権限規定が憲法にはありません。実際、小渕総理が倒れたときに、代理指名の正当性や臨時代理の権限について、議論が行われました。現在、内閣法上規定が整備されていますが、やはり憲法上の根拠規定をきちんと整備すべきでしょう。

 裁判官の報酬については、第79条及び第80条に「裁判官は、すべて定期に相当額の報酬を受ける。この報酬は、在任中、これを減額することができない。」とあります。そのため、国家公務員の給与の引下げを行うときに、大いに問題となりました。結局一般の公務員の例により裁判官の報酬も引き下げたのですが、この規定との関係の議論は残りました。さらに、懲戒や分限の場合でも、現行法制では報酬を引き下げられないことになっています。草案では、「分限又は懲戒による場合及び一般の公務員の例による場合を除き、」と例外を定めたところです。

 第89条は、公金その他の公の財産は「公の支配に属しない慈善、教育若しくは博愛の事業に対し、これを支出し、又はその利用に供してはならない。」と定め、特に私学助成の妨げになっているという批判があります。しかし、これまでの実例の積み上げによって私学助成は適切に行われており、また、私学の建学の精神にも鑑み、草案は、基本的にこの条文を残すことにしています。しかし、「公の支配に属しない」という表現は私学等の皆さんに礼を失するので、草案では「国若しくは地方自治体その他の公共団体の監督が及ばない」という表現に改めています。

 最後に、第97条に「この憲法が日本国民に保障する基本的人権は、人類の多年にわたる自由獲得の努力の成果であつて、これらの権利は、過去幾多の試錬に堪へ、現在及び将来の国民に対し、侵すことのできない永久の権利として信託されたものである。」と規定されています。草案ではこの規定を全部削除としたため、物議を醸しています。削除の理由は第11条とのダブりであり、同条にも「基本的人権は、侵すことのできない永久の権利として、現在及び将来の国民に与へられる。」と現に規定されているところです。

 なぜ基本的人権の規定が第3章ではなくてこんな所にも規定されているかというと、ほぼ和文の憲法草案が出来上がった段階で、GHQのホイットニー民政局長がこの条文を自ら起草して追加をするよう要求してきたとものと一説に言われています。自分の足跡を残すためではなかったかとも言われています。内容は、確かに立派な文章ですが、西洋史を勉強した人ならばヨーロッパにおける市民革命の歴史を記述したたものであることは、容易に分かります。「信託」というのも、天賦人権説的表現です。

 これらの点については、このまま放っておいても大きな影響がないものからできればすぐに改正したいものまで様々なものが含まれています。その評価は、ここではあえて行いません。ただし、このように憲法制定以来ほぼ70年を経て様々な点で改正を要する事項が積み上がってきていることは、理解していただきたいのです。

 以上は、個人的見解であり、自民党の公式見解とは関係ありません。

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憲法改正はどうなるのか(1月27日)

 この度の森英介自民党新憲法改正推進本部長の下の人事異動で、事務局長から副本部長に昇格させていただきました。今後とも、よろしくお願い申し上げます。

 集団的自衛権の容認を含む平和安全法制の成立に伴い、自民党の憲法改正への熱意が冷めたのではないかとの声も聞きますが、全くそのようなことはありません。自主憲法の制定は自民党の党是であり、私は、事務局長時代に「憲法改正は、参議院議員選挙後」と言い続けてきており、そのことに変化はありません。

 ただし、憲法改正の手続が国会発議と国民投票の2段階に分かれていることから、自民党だけが闇雲に走り回って憲法改正ができるわけではありません。国会発議には、衆議院、参議院の両方で国会議員の3分の2以上の賛成が必要だからです。まず、両院で、具体的な憲法改正の手続に入っていいという勢力を3分の2以上確保しなければなりません。

 これまで、国民投票法(憲法改正手続法)の制定及び改正、選挙権年齢の18歳以上への引下げのための公職選挙法改正などの憲法改正の準備作業は、絶対護憲を主張する共産党及び社民党を除き、民主党を含む8会派で行ってきました。今、野党内で離合集散が続いており、何会派になったのかよく分かりませんが、衆参の3分の2を超える勢力をもって準備作業を行ってきたのです。これがそのまま具体的な憲法改正の手続に進めばいいのですが、そのために各会派が「テーブルに着く」までには、まだかなりの距離があります。他党では、憲法改正の準備作業と具体的な憲法改正手続は、別の話だと考えている向きがあります。

 まず重要なことは、参議院議員選挙で与党や憲法改正に前向きな党派が勝利を収め、同院において明確な勢力を確保することです。参議院では、現在自民党は過半数を確保しておらず、与党の勝利により自民党及び公明党で限りなく3分の2の勢力に近づけることが必要です。このことが、大前提になります。

 自民党としては、憲法改正の準備作業を一緒に行ってきた民主党にも憲法改正手続の枠組みに入ってもらいたいのですが、予断を許しません。憲法改正を具体化するためには、その中身を議論してもいいという衆参両院で3分の2以上の勢力の会派にテーブルに着いてもらうことが不可欠です。この議論の枠組みができれば、憲法改正の国会発議は現実性を帯びたものとなります。

 ただし、ここで指摘しておかなければならないことは、その枠組みで議論する国会発議のための憲法改正原案は、自民党の「憲法改正草案」よりも随分小さなものになることが予想されるということです。自民党は、国民政党ですから、余り思想的なものは表に出さないできたのですが、憲法改正草案は自民党の思想を正に総括したものとなっています。したがって、他党には、その自民党の色彩になじめないと思われるものが多く含まれている可能性があります。結果衆参両院で3分の2以上の勢力が合意する内容しか憲法改正原案にはならないわけですから、憲法改正の議論の枠組みに参加する全ての会派が賛同する内容しか原則原案として認められません。このことについて、意外と多くの人が理解していないのに驚きます。

 もちろんテーブル上で会派間の議論は交わされますが、憲法改正は一条一条が独立した内容ですから、相互に取引できるようなものではありません。部分的な条文の書き振りの調整は可能であるとしても、その条文を案にすることは絶対反対と表明する会派があれば、憲法改正原案に入れることは基本的にできません。したがって、憲法改正原案に入れることができる条文の数は、自民党の憲法改正草案よりもずっと少なくなることが予想されます。実際、最初の憲法改正は、できるだけ広範な国民が賛同できるものにする必要があるでしょう。

 こうしたことから、自民党関係者から具体的な憲法改正箇所を絞った議論が時々行われています。もちろん、国会における憲法改正のための世論作りとして多くの会派が賛同し得る改正項目を見極めていくことは重要なことであり、それぞれの立場で憲法改正原案の在るべき方向性について意見を表明することは意義あることです。しかし、いまだ国会において憲法改正に賛同する勢力が確定していない段階で、既に憲法改正草案を公表している自民党側から議論の枠を狭めることは、余り有効な手段とは考えられません。

 憲法改正に賛同する勢力が協議のテーブルに着けば、先ほど述べたように、憲法改正項目は自ずと定まっていくものなのです。語弊を恐れずに言えば、憲法改正はできるものしかできないのです。それが、今の世界で最も厳しい憲法改正規定を持つ我が国の宿命です。衆参両院で3分の2以上の勢力の賛同を得られない憲法改正は、絶対にできません。ただし、憲法改正は1回で終わるものではないことも、付け加えておきます。

 したがって、当面は、憲法改正を賛同する勢力を衆参両院で3分の2以上確保するために、まず選挙に勝たなければなりません。そして、そういう状況に至ったならば、当該会派にテーブルに着いてもらい、具体的な憲法改正項目について議論を開始するという手順になるものと考えています。

※個人的見解であり、自民党の公式見解ではありません。

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軽減税率の導入に伴うインボイスの発行(1月14日)

 消費税率10パーセントに引上げに際しては、税制調査会で、軽減税率を生鮮食品に加え酒類を除く加工食品まで対象とし、外食は含めないこととするとともに、週2回以上発行する定期購読の新聞も対象とすることで決着しました。妥当な線の決着だと考えます。マスコミは外食との線引きなどについて興味を持っていますが、もう一つ大事な視点が、複数税率になることに伴う中小事業者の事務負担増の問題です。このことについて、やや専門的な話になりますが、簡単に説明したいと思います。

 小売業者は、消費者から預かった消費税の全てを税務署に納めるわけではありません。なぜならば、小売業者自体が仕入れ先に仕入額に見合う消費税を払っているので、その分を消費者から預かった消費税から控除した額を税務署に納めているからです。そのため、この仕入税額控除と呼ばれる事務が、業者の負担になっているのです。それが、本来税率と軽減税率の二段階の複数税率になることにより、若干複雑化することになります。

 インボイスというのは請求書という意味ですから、今までも当然交付されていました。ただし、交付義務も、不正交付の罰則もなく、免税事業者も交付可能でした。請求書には、取引した品物の取引額の総額が書かれていれば良く、それに8/108を乗じて得た額を消費税額とする(割戻し計算)ため、売上高1000万円以下の免税事業者からの仕入も仕入税額控除が可能でした。消費税が10パーセントに引き上げられる平成29年4月からは、本来税率の取引総額と軽減税率の取引総額に分けて記載しなければならないようになります。これは当然の措置ですが、それ以外の点は従前と変わりありません。

 さらに、軽減税率導入から4年後の平成33年4月からは、それに加え、本来税率の取引と軽減税率の取引それぞれの消費税額及び事業者番号を記載しなければならないようになります。その上、インボイスの交付義務も法定化され、不正交付には罰則が掛かります。インボイスは「適格請求書」と呼ばれ、免税事業者は発行することができません。したがって、免税事業者からの仕入れは仕入税額控除ができなくなりますが、当該仕入れについては、経過措置として、最初の3年間は80パーセントを、その後の3年間は50パーセントを控除できるようになります。軽減税率導入後10年間は、特例措置が継続されわけです。

 ここで、よく誤解がありますが、消費税額の計算に当たっては、従来の割戻し計算が認められなくなるわけではなく、結果は同じですが、適格請求書に記載された消費税額の積上げ計算によるほか、取引額からの割戻し計算も選択できるようになります。また、現行どおり、インボイスに小売事業者の販売先の名称の記載は不要です。

 このような税率ごとの売上げの管理がすぐにできない課税売上高5000万円以下の中小事業者は、軽減税率導入から4年間(中小事業者以外にあっては、1年間)に限り、売上税額計算の特例が認めら、簡易な計算が可能です。@ 仕入れた商品をそのまま販売する業者は、仕入額に占める軽減税率対象の仕入額の割合をそのまま売上額に適用することができます。A @ができない業者については、連続する10営業日において、軽減税率対象の売上額を調査し、その割合をもって年間の売上額の軽減税率割合とみなすことができます。B Aもできない主として軽減税率対象品目を販売する業者は、損税になりますが、売上額の2分の1を軽減税率対象の売上額とみなすことができます。

 また、税率ごとの仕入れの管理がすぐにできない業者については、軽減税率導入後1年間に限り、@ 仕入れた商品をそのまま販売する業者は、売上額に占める軽減税率対象の売上額の割合をそのまま仕入額に適用することができます。A @ができない中小事業者は、簡易課税制度(事業の種類ごとに法定されたみなし仕入率を適用する方式)を事後でも選択することができます。

 このように、軽減税率を適用する上で、平成33年からはきちんとインボイスを発行して仕入税額控除を適切に行ってもらわなければならなくなりますが、その準備が完全にできるまでには一定の期間を要するものと考えられるので、上記のような幾つかの特例措置を講ずる予定です。インボイスという横文字を遣うので何か難しいことのように感じますが、要は税率ごとに取引を仕分けて税額を計算した上で仕入税額控除を行い、納税してくださいということです。勤勉な日本人にできないような手続では決してありません。

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糖質制限ダイエットの勧め(1月6日)

 正月ですので、一つ閑話を。昨年、定期検診で幾つかの数値が上がったことを医師に指摘され、夏頃からダイエットを始めました。実質約3か月で、7キログラムほど体重を落としました。これは、大成功であったと言えるでしょう。もちろん、それに伴い全ての数値も、改善してきました。最近では、その成果が顔にも出るようになり、「随分ほっそりしたね。」と言われるようになりました。

 従来のダイエットはカロリー制限が中心でしたが、今では、大肥満の人を除けば、カロリー制限はほとんど効果がないと言われています。また、炭水化物ダイエットもはやっていますが、炭水化物の中には繊維がたくさん含まれており、これを採らないとかえって血糖などが上がってくるとも言われています。最近では、日本人の成人病の元凶は「糖質」にあると考えられており、その制限が一番ダイエットにも効くことを身をもって体験しました。

 栄養士さんからは、「野菜や魚や肉のおかずは食べてもいいから、御飯を減らすように。」と指導を受けました。私は、水田農業議連にも、パン振興議連にも所属しており、なかなか言いにくいことなのですが、主食を減らすことが最も効果があるようです。ただし、それを全く採らないと、健康のためにかえって悪いというのが炭水化物ダイエットとの違いです。

 では、どれくらいならいいのかと言うと、1日に糖質を120グラムから130グラムに抑えればいいということです。3食御飯を食べるとすると、1回当たり40グラム程度になります。これは、御飯を茶碗で半杯に当たります。レトルトの御飯が、普通で200グラム、小盛りで150グラムですから、小盛りの半分の75グラムで済ませれば、糖質は40グラムに抑えられます。それではおなかがすくとお考えでしょうが、おかずはちゃんと食べてもいいので、だんだんおなかの方が慣れてきます。食パンであれば、六つ切りの半分というところでしょうか。

 魚や肉の料理は、全く問題ありません。カロリー制限はしないので、それらを調理する食用油やバターなども制限はありません。それに対し、主食の米(御飯)、小麦(パン)、そば、うどんは、糖質の食べ物です。そばは、カロリーは少ないのですが、糖質は多いのです。おにぎりや餅は、糖質の観点からは、勧められません。

 野菜は、一般に血糖を下げる働きがありますが、芋、カボチャと豆類(大豆、枝豆を除く。)は、野菜ではないと考えてください。一方、芋や豆を原料としていても、こんにゃくと豆腐は、糖分がありません。青物野菜はまず全て大丈夫ですが、トウモロコシやレンコンは糖質の野菜です。根菜類では、ゴボウやニンジンに若干の糖分があります。タマネギ、キャベツや白菜にも甘いものがありますが、こんなものまで避けていては食べるものがなくなります。しいたけなどのきのこや海藻類は、全く問題ありません。意外と、アーモンドやピーナッツなどのナッツ類は、豆類と違って糖質がありません。

 糖質ダイエットの大敵は、果物です。アボガド、オリーブ、ココナッツ以外のイチゴ、リンゴ、ミカンなどの果物は、全て駄目です。ミカン振興議連にも入っていますが、果汁いわゆるジュースは、率直に言って問題があります。野菜ジュースはいいのですが、トマトベースのものに限り、リンゴベースのものなどはもちろん駄目です。

 一方で、卵や牛乳、チーズ、ヨーグルトなどの乳製品は、全く問題ありません。ヨーグルトは、もちろん砂糖抜きです。こう見てみると、結構食べられるものが多く、糖質制限ダイエットは、慣れてしまえばそう苦しいものではありません。

 嗜好品では、砂糖や蜂蜜を使った菓子類が駄目なのは、言うまでもありません。コーヒー、紅茶、日本茶などは、問題ありません。最近では、低糖甘味料を使ったケーキなども売っています。人工甘味料は、自然成分由来のものは健康に支障がないと言われています。

 アルコールでは、蒸留酒のウイスキーや焼酎は、糖分がありません。その反対に、醸造酒の日本酒やビールは、糖分が多いのです。その中間が、ワインです。しかし、適切な量の飲酒にとどめるのであれば、多少日本酒やビールを飲んでも構わないでしょう。御飯を食べるよりは、随分糖分が少ないのです。ただし、ダイエットの話であり、肝臓などに問題のある人は、また別です。

 あとは、毎朝定時に体重を量ることが重要です。スマホなどで体重管理ソフトをダウンロードし、折れ線グラフで記録を続けると、毎日の反省の下に自己管理をしやすくなります。加えて、若干の運動も必要です。皆さんも挑戦してみてください。

※ダイエットについて個人的感想を述べたものであり、持病のある方は、医師や栄養士の指導を受けてください。

 糖質制限ダイエットの勧め2
 糖質制限ダイエットの勧め3

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