11月26日に、昨年の参議院議員通常選挙に係る一票の較差について、最高裁判所大法廷判決が出されました。結論は、合憲・違憲状態であるということでした。選挙そのものは、諸般の事情に照らし、憲法に違反しているとは言えないが、一票の較差は、違憲状態にあるという判断です。「合理的期間未経過」を主な理由としており、率直に言って国にとっては優しい判決でした。
諸般の事情として、前々回の通常選挙に対する最高裁の合憲・違憲状態判決が行われてから前回選挙まで9か月しかなく、是正のための合理的な期間が経過していないこと、前回選挙でも不十分ながら4増4減の是正措置が講じられていること、法律の附則で次回の選挙までに抜本的見直しを行うことを規定し、現在実際に検討が行われていることを挙げています。
一方、前回選挙の一票の較差は最大4.77倍であり、従来の選挙の仕組みを維持しつつ、5倍前後の較差の水準が続いていることは、違憲状態を解消するものではないと断じました。その上で、都道府県を単位とする現行方式をしかるべき形で改めるなど、できるだけ速やかに、現行選挙制度自体の見直しを行うことを求めました。
個人的意見ですが、大法廷の多数意見は、非常に妥当なものであると考えます。一方、今回も、しからば参議院議員選挙における許容できる一票の較差はどの程度なのか、判決では全く触れられませんでした。立法権と司法権の関係を考えるとき、一義的には国会の裁量に委ねたものと考えられます。なお、判決では衆議院議員選挙について一票の較差を2倍未満とすることを法制化していることに言及しており、衆議院については、それを首肯することが伺われます。
この判決を受け、次の参議院議員通常選挙までに選挙制度の抜本的な改革を行わなければなりません。参議院では、これまで与野党による選挙制度協議会を30回にわたって開催してきました。しかし、各会派の意見の隔たりは大きく、次回選挙での改革については合意しているものの、その方向性は定まっていません。意見には、大きく三つのものがあります。第一に、現行の全国比例と都道府県選挙区を基本的に維持するものであり、自民党、民主党、新党改革及び生活の党が支持しています。第二に、従来の全国比例に加え、都道府県選挙区に変え新たにブロック選挙区を設けるものであり、維新の党、次世代の党及び社民党が支持しています。第三に、全てをブロック選挙区とするものであり、公明党、旧みんなの党及び共産党が支持しています。
第1党の自民党と第2党の民主党の意見が一致しているのであれば話はまとまるのではないかと見る人もいるでしょうが、具体的な中身では、なお相当の隔たりがあります。自民党は、3案提出したうちの最も厳しい第3案で、3選挙区の定数削減(長野・宮城・新潟)に加え、若干の2県合区を行うこととしています。例示された合区が2県(鳥取・島根)だけであれば、較差は3.23倍まで縮小します。一方、民主党は、4月に提出された22府県11合区を行う脇座長当初案を基本としつつ、定数削減(神奈川及び比例1)及び分区(東京)を行い、較差を1.89倍にすることとしています。
自民党としては、都道府県選挙区の基本を維持することは譲れない一線であり、それを廃止することは全く考えていません。したがって、それに変えブロック選挙区を設けることには、強く反対しています。また、民主党の支持する脇座長当初案は、22もの府県を合区するものであり、現行の都道府県選挙区が維持されているとはとても言えず、自民党内に賛成論はほとんどありません。9月に提出された脇座長調整案でも、10県5合区を行うものとなっており、なお党内合意は厳しい状況にあるものと考えられます。ちなみに、自民党第3案でもう一つの合区(高知・徳島)を加えれば、飽くまで試算ですが、較差は2.98倍となり、3倍を切ることも可能です。
このように、一部マスコミは参議院選挙制度改革を何もしていないように報じていますが、確実に議論を一歩一歩進めているのです。引き続き、参議院では、選挙制度協議会の場で検討を続けますが、成案を得ることができないときは、親会である各会派会長レベルの選挙制度の改革に関する検討会に議論を委ねることになります。いずれにせよ、再来年の次回参議院議員通常選挙に間に合わせるためには、来年の通常国会で公職選挙法の改正を行うことが必要であり、速やかな検討が待たれます。
以上は、私見であり、政府及び自民党の公式見解とは関係のないものであることをお断りしておきます。
昨年、自民党の消防議員連盟を中心として、「消防団を中核とした地域防災力の充実強化に関する法律」を成立させました。消防団は、地域の消防・防災において重要な役割を果たしており、中小都市や町村においては、常備消防と並んで正に中核的な貢献をしています。東日本大震災において、消防団員は、津波の来襲する現場で水門の閉鎖や警報業務に努め、254人の方が殉職されました。消防職員の殉職者が27人であったことからも、消防団の活動がいかに広範にわたっていたかが分かります。それにもかかわらず、消防団員は、その処遇等の面で十分に報いられているとは言えません。そこで、法律は、「消防団が将来にわたり地域防災力の中核として欠くことのできない代替性のない存在であることに鑑み、消防団の抜本的な強化を図るため、必要な措置を講ずる」(第8条)ことを定めました。
消防団は、非常勤特別職の地方公務員と位置付けられています。地方公務員とはいっても、非常勤ですから、ふだんはそれぞれの職業を持ちながら、休日等に訓練を重ね、非常時に備えています。平成25年において、全国で、消防職員が16万人であるのに対し、消防団員は、87万人弱となっています。昭和31年には、183万人の消防団員がいましたが、年々逓減し、今では半数以下となっています。この間常備消防が充実してきたこともありますが(現在97.9%)、地域の連帯感や若者の社会参加意識の希薄化なども影響しています。くわえて、報酬を始め消防団員の処遇が十分ではないことが、指摘されています。
消防団は、消防吏員と同様階級制を採り、その階級は、団長、副団長、分団長、副分団長、部長、班長及び団員となっています。一番多い「団員」の報酬の地方交付税単価は、36,500円となっています。「結構もらえるのではないか。」と考えた方も多いと思われます。しかし、これは、月額ではなく、年俸なのです。平成24年で、消防団員は、訓練を含め、年62万回、延べ966万人が出動していますから、1人当たり年11回程度出動していることになります。しかも、地方交付税単価どおりの報酬が措置されていればいいのですが、平成24年度で、「団員」報酬の全国平均は、25,512円と地方交付税単価を1万円以上も下回っています。この数字も、年俸9万円という恵まれている東京都の額も算入されているので、全国的には、もっと低い感じです。例えば私の地元の大分県では、市町村の単純平均で20,672円であり、更に低額に押さえ込まれています。
なぜこういうことになっているのでしょうか。それは、地方交付税が一般財源としての地方財政措置であることから、地方交付税単価どおりの予算付けがなされていないからです。しかし、地方交付税の基準財政需要額のうち消防費に占める非常備消防費(消防団費)は9.5パーセント程度であり、全国市町村の決算額のうち消防費に占める割合は9.0パーセント程度であって、実際大きな差はなく、消防団費が低く抑えられているわけでもありません。年俸で3万円前後の報酬の話をしているわけですから、各市町村ががんばって消防団員の処遇改善をしても、市町村財政に大きな影響を与えるわけではないのです。私の計算では、「団員」の報酬を地方交付税単価まで改善をするためには、全国ベースで68億円余り、人口10万人の標準団体(「団員」462人)では年510万円程度にすぎず、消防職員の人件費の2人分にもなりません。
では、再び、なぜそうしないのでしょうか。それは、市町村の予算査定が横並び主義で行われているからです。こういう報酬を改定するときは、市町村の財政課は、府県内の他の市町村に係る報酬額の一覧表を提出するよう消防局に依頼します。その資料を眺めながら、では横並びでうちの市町村はこれぐらいと査定されてしまうのです。だから、消防団員の報酬額は、全国的な低値安定が続くことになります。
そこで、法律では、「国及び地方公共団体は、消防団員の処遇の改善を図るため、出動、訓練その他の活動の実態に応じた適切な報酬及び費用弁償の支給がなされるよう、必要な措置を講ずる」(第13条)と定められたところです。法律の規定の基づき、現在、消防庁から強力な技術的な助言を行っているところですが、地方交付税は一般財源措置であることから、個々の市町村の予算措置を強制することはできません。こうした実態をしっかりと訴え、住民を始め、市町村長、市町村議会議員など関係者の認識を高めていくことが是非とも必要です。一般財源措置とはいっても、地方交付税単価の基づく財政措置は現に行われているわけですから、地域防災の中核である消防団員の処遇改善に一層の努力をしていただきたいものです。
今次調査の結果、長期に、かつ広範な地域にわたって慰安所が設置され、数多くの慰安婦が存在したことが認められた。慰安所は、当時の軍当局の要請により設営されたものであり、慰安所の設置、管理及び慰安婦の移送については、旧日本軍が直接あるいは間接にこれに関与した。慰安婦の募集については、軍の要請を受けた業者が主としてこれに当たったが、その場合も、甘言、強圧による等、本人たちの意思に反して集められた事例が数多くあり、更に、官憲等が直接これに加担したこともあったことが明らかになった。また、慰安所における生活は、強制的な状況の下での痛ましいものであった。
なお、戦地に移送された慰安婦の出身地については、日本を別とすれば、朝鮮半島が大きな比重を占めていたが、当時の朝鮮半島は我が国の統治下にあり、その募集、移送、管理等も、甘言、強圧による等、総じて本人たちの意思に反して行われた。
いずれにしても、本件は、当時の軍の関与の下に、多数の女性の名誉と尊厳を深く傷つけた問題である。
(個人後援会の機関誌「新風会だより」の巻頭言から引用しました。)
安倍内閣は、7月1日に「国の存立を全うし、国民を守るための切れ目のない安全保障法制の整備について」閣議決定しました。安全保障に関する法制には難しい問題が多く含まれているので、皆さんの理解に資するため、今回の「新風会だより」は安全保障を特集しました。
安全保障法制の整備については、平時におけるグレーゾーンの問題、国連決議に基づく集団安全保障やPKOなどの問題、テロからの邦人救出の問題など多くの緊急課題があります。決して集団的自衛権の問題だけではないのですが、やはり集団的自衛権が議論の焦点になっています。憲法第9条との問題が大きく絡んでくるからです。
「集団的自衛権の行使を認めると戦争に巻き込まれる。」などの根拠のない批判も行われています。我が国は、自衛隊の創設以来個別的自衛権を有していますが、60年間一度も行使したことのない平和国家です。今回も、「限定容認論」を採用し、我が国の存立を全うし、国民を守る場合に限って、必要最小限度の自衛の措置としての集団的自衛権の行使を容認したに過ぎません。それも、第三国から我が国に対する武力行使(侵略)等が行われる明白な危険がなければ、行使されるものではありません。
「一内閣が勝手に閣議決定によって集団的自衛権の行使を認めて良いのか。」というためにする批判も、行われています。閣議決定は、飽くまで政府与党の意思統一をするために行われたものです。実際に自衛隊が集団的自衛権を行使できるようにするためには、自衛隊法の改正など、今後、関連法案を作成し、国会において時間を掛けた議論が行われることが必要です。閣議決定は、議論の終わりではなく、議論の始まりです。
集団的自衛権は、個別的自衛権とともに、国連憲章により認められた全ての加盟国が保持する固有の権利です。スイスなどの永世中立国を除き、日本以外の全ての国において行使が可能です。集団的自衛権の行使容認により、日本が世界の国と同等になるだけのことです。また、集団的自衛権は、その名のとおり「権利」であって、決して「義務」ではなく、行使するかどうかは、万一の場合、その時の政府と国会が慎重に判断することになります。
「なぜ憲法改正をしないでいいのか。」という疑問があります。このことは、最も重要なポイントです。それをきちんと説明したのが、閣議決定なのです。我が国では、憲法第9条の下、個別的自衛権でさえ、政府の憲法解釈により、必要最小限度の範囲内でしか行使できないこととされています。現在、国際関係が複雑化し、軍事技術が進展する中で、直接我が国が武力攻撃を受けた場合でなくとも、その明白な危険がある場合においては、我が国の存立を全うするための自衛の措置としての集団的自衛権の行使であれば、憲法の許容する「必要最小限度の範囲内」に含まれると考えたところです。憲法の許容する憲法解釈の変更であれば、憲法改正は、当然必要ありません。
集団的自衛権の行使容認により、自衛隊が大きく変わるわけではありません。切れ目のない安全保障法制を整備することにより、我が国があらゆる事態に備えることを内外に明らかにし、「抑止力」を高めることが最大の目的です。また、アメリカ以外の友好国とも安全保障対話を行い、平時の共同訓練もより積極的にできるようになります。決して軍備を拡張し、軍事的な緊張を高めようとするものではありません。
我が国の平和主義は、貫かねばなりません。そのためには、あらゆる事態に隙間なく対応できる体制を整えておくことが必要です。じっとしているだけでは、本当の平和は保てません。多くの国と協調しながら、世界の平和と我が国の平和を守っていくことが必要です。それが、積極的平和主義です。今後、国会を中心に、安全保障議論が白熱してきます。是非安倍内閣の安全保障政策に御理解をいただきたいと思います。
以上は、私見であり、政府の見解とは関係のないものであることを申し添えます。
【関係する私の主張】
限定容認論とは何か(7月17日)
安全保障法制整備に関する閣議決定(7月1日)
国家安全保障の全体像と課題(5月27日)
砂川判決の意義(5月2日)
憲法解釈の変更と憲法改正の違い(3月11日)
集団的自衛権とは何か(3月4日)
安保法制懇で議論され、閣議決定で示されたことは、決して集団的自衛権のことだけではなく、平時における武装集団への対応、いわゆるグレーゾーンへの問題や、国連決議に基づく集団安全保障への対応、PKOなどの国連平和維持活動、邦人救出などの国際貢献等安全保障の全般に及んでいます。しかし、議論の焦点は集団的自衛権の行使容認にあるようですので、この問題に焦点を当ててみたいと思います。
国連憲章第51条は、全ての加盟国が個別的自衛権及び集団的自衛権を保持することを固有の権利(自然権)として認めています。しかるに、我が国では、憲法第9条の下、「集団的自衛権は、保持しているが、行使できない。」という憲法解釈をずっと採ってきました。
憲法第9条は、一見しただけでは全ての武力の行使を禁止しているようにも、思えます。制憲議会においては、吉田茂総理が実際そういう趣旨の答弁をしているのです。しかし、朝鮮戦争の勃発に伴い、米軍の出兵により我が国の守りが手薄になると、GHQの指令により警察予備隊が発足し、我が国の主権回復後、保安隊を経て、昭和29年に自衛隊が創設されました。ここに、我が国に自衛権が事実上認められたのです。そして、その後も議論は続きましたが、昭和34年の最高裁判所砂川判決において、「わが国が、自国の平和と安全を維持しその存立を全うするために必要な自衛のための措置をとりうることは、国家固有の権能の行使として当然のこと」であることが明らかにされました。
その後、時間は経過しましたが、国会で集団的自衛権の行使が議論され、政府は、参議院決算委員会において、初めて集団的自衛権に関する見解を明らかにしました。その骨子とするところは、次のとおりです。
@ 憲法第9条は、国民の生存権をうたった憲法前文及び国民の幸福追求権を定めた同第13条の規定に照らし、自国の平和と安全を維持しその存立を全うするために必要な自衛のための措置をとることを禁じているとは到底解されない。
A しかしながら、自衛のための措置を無制限に認めているとは解されないのであって、その措置は、外国の武力攻撃によって国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆されるという急迫、不正の事態に対処し、それを排除するために採られるべき必要最小限度の範囲にとどまるべきものである。
B そうだとすれば、我が国に対する急迫、不正の侵害に対処する場合に限られるものであって、他国に加えられた武力攻撃を阻止することを内容とする集団的自衛権の行使は、憲法上許されない。
現在、Bの結論については、多くの人が論理の飛躍があるのではないかと、指摘しています。当時は、まだ自衛隊が国際貢献のため海外派遣されるということがなかった時代であり、あえて国会における論争を挑む実益もなかったことから、政治的判断により集団的自衛権の行使を認めないこととしたものと推察されます。
それから40年を経て、国際情勢は大きく変化しました。グローバルなパワーバランスの変化、技術革新の急速な進展、大量破壊兵器や弾道ミサイルの開発、拡散、国際テロの脅威により、アジア太平洋地域において問題や緊張が生み出されるとともに、脅威が世界のどの地域において発生しても、我が国の安全保障に直接的な影響を及ぼし得る状況になっています。そうした中で、同盟国である米国との相互協力を強化するとともに、域内外のパートナーとの信頼及び協力関係を深めることが重要とされています。
これまで、政府は、「武力の行使」が許容されるのは、我が国に対する武力攻撃が発生した場合に限られると考えてきました。しかし、我が国を取り巻く安全保障環境が根本的に変容し、変化し続けている状況を踏まえれば、今後他国に対して発生する武力攻撃であったとしても、その目的、規模、態様等によっては、我が国の存立を脅かすことも現実に起こり得ます。こうしたことから、世界中の国が行使できることとされている集団的自衛権を、我が国も行使し得るように法整備することにより、抑止力を飛躍的に向上させることができると判断したところです。
政府は、昭和56年の閣議決定で、「憲法第9条の下において許容されている自衛権の行使は、我が国を防衛するため必要最小限度の範囲にとどまるべきものであると解しており、集団的自衛権を行使することは、その範囲を超えるものであって、憲法上許されない」とし、集団的自衛権が許されない理由をより明確にしました。そして、全ての集団的自衛権の行使が、必要最小限度の範囲を超えると断定したのです。
このことについて、安倍総理は、平成16年の自民党幹事長時代に、衆議院予算委員会で、「「範囲内にとどまるべき」というのは、これは数量的概念を示しているわけでありまして、絶対にだめだ、こう言っていいるわけではないのであります。論理的には、この範囲の中に入る集団的自衛権の行使というものが考えられるかどうか。」と質問しています。それに対して、秋山内閣法制局長官は、自衛権発動の「第一要件を満たしていないという趣旨で申し上げているものでございまして、お尋ねのような意味で、数量的概念として申し上げているものではございません。」と答えています。
実は、この質疑が今回の検討において大いに参考となったのです。秋山長官がそのような答弁をしたのは、当時は集団的自衛権の行使は認められないというのが政府の憲法解釈でしたから、やむを得なかったのですが、昭和47年の政府解釈の法理を前提としても、集団的自衛権の行使を認め得るのではないかと当時の安倍幹事長は指摘したのです。すなわち、それが数量的概念であるのかどうかは別の話ですが、政府解釈の@とAの法理の部分を前提としても、「必要最小限度の範囲内」と認め得る集団的自衛権の行使があり得るのではないかという考えが、自民党関係者の中にずっとあったのです。
Aに規定されているように、外国の武力攻撃によって国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆されるという急迫、不正の事態に対処し、それを排除するために採られる措置、言い換えれば、我が国の存立を全うし、国民を守るための自衛のための措置であれば、必要最小限度の範囲内にとどまり、集団的自衛権であっても行使し得ると考えたところです。これが、「限定容認論」のいわれです。ただし、まだ我が国に対する武力攻撃が行われていない段階での判断となるので、「急迫、不正の事態」は、「明白な危険」と読み換えました。
集団的自衛権の行使は、世界中の国々が保有する権利ですが、当時の時代背景の下で、我が国は、直ちにそれを行使しなければならないような客観情勢になく、また能力もなかったので、その行使の権利を留保していたと考えるべきでしょう。当時も、集団的自衛権の保持自体は否定していなかったので、決して集団的自衛権に否定的な価値が与えられたものではなかったと考えます。そして、今日まで国際情勢が大きく変化してきた中で、従来の個別的自衛権の行使でさえ抑制的な我が国の自衛権の考え方を基調としつつ、その延長上に自衛のための措置としての限定的な集団的自衛権の行使を新たにその自衛権の概念に含まれることとしたと考えると、分かりやすいと考えます。
我が国においては、憲法第9条の下、我が国が直接武力攻撃を受けた場合の個別的自衛権でさえも、「必要最小限度」という制限を受けているのです。この「必要最小限度」の制限を集団的自衛権まで延長し、我が国の存立を全うし、国民を守る場合に限って集団的自衛権を認め得ると考えたところです。したがって、集団的自衛権の行使も、飽くまで「自衛の措置」としてのみ認め得ることになります。何が違うかと言えば、我が国が直接武力攻撃を受けていない段階で、自衛権の行使ができることになることです。その場合でも、第三国による密接な関係のある他国に対する武力攻撃(侵略)が始まっていることは当然の前提であり、決して専守防衛の考え方から逸脱するものではありません。
では、新たな武力の行使の三要件における「外国の武力攻撃によって国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆されるという明白な危険」があるときとは、いかなる事態をいうのでしょうか。それは、それを放置することによって、次は我が国に対する戦禍が及び、又は我が国の国民が深刻な犠牲を被る蓋然性が極めて大きい場合をいうものと考えます。ただし、極めて限定的な状態に限られることは、言うまでもありません。
安倍総理がいつも言うように、新たに集団的自衛権の行使を法制上認めるのは、実際その行使をせざるを得ないような事態を引き起こしたいわけではなく、あらゆる事態に我が国が隙間なく備えることにより、そういう事態が起きないよう抑止力を高めることを目的としています。ここが、今回の安全保障に関する法制の整備について一番重要な視点であると考えます。
以上は、私見であり、政府の見解とは関係のないものであることを申し添えます。
7月1日(火)、政府は、安全保障の法的基盤の再構築に関する懇談会の報告書を受けた安全保障法制整備に関する与党協議会の合意に基づき、「国の存立を全うし、国民を守るための切れ目のない安全保障法制の整備について」閣議決定しました。戦後の国家安全保障体制を大きく変える契機となる閣議決定であり、その概要について解説します。ちょっと難しいかもしれませんが、原文を要約することによってお示しします。
○時代認識等
我が国は、戦後一貫して日本国憲法の下で平和国家として歩んできました。専守防衛に徹し、他国に脅威を与えるような軍事大国とはならず、非核三原則を守るとの基本方針を堅持しつつ、国際社会や国際連合を始めとする国際機関と連携し、それらの活動に積極的に寄与しています。
一方、日本国憲法の施行から67年となる今日までの間に、我が国を取り巻く安全保障環境が根本的に変容し、更に変化を続け、我が国は、複雑かつ重大な国家安全保障上の課題に直面しています。グローバルなパワーバランスの変化、技術革新の急速な進展、大量破壊兵器や弾道ミサイルの開発、拡散、国際テロの脅威により、アジア太平洋地域において問題や緊張が生み出されるとともに、脅威が世界のどの地域において発生しても、我が国の安全保障に直接的な影響を及ぼし得る状況になっています。
政府の最も重要な責務は、我が国の平和と安全を維持し、その存立を全うするとともに、国民の命を守ることです。まず、力強い外交を推進することにより、脅威の出現を未然に防ぐとともに、国際法にのっとって行動し、紛争の平和的な解決を図らなりません。
さらに、我が国自身の防衛力を適切に整備、維持、運用し、同盟国である米国との相互協力を強化するとともに、域内外のパートナーとの信頼及び協力関係を深めることが重要です。特に、日米安全保障体制の実効性を一層高め、日米同盟の抑止力を向上させることにより、武力紛争を未然に回避し、我が国に脅威が及ぶことを防止することが必要不可欠です。
その上で、いかなる事態においても国民の命と平和な暮らしを断固として守り抜くとともに、国際協調主義に基づく「積極的平和主義」の下、国際社会の平和と安定にこれまで以上に積極的に貢献するためには、切れ目のない対応を可能とする国内法制を整備しなければなりません。
5月15日に「安全保障の法的基盤の再構築に関する懇談会」から報告書が提出され、同日に安倍総理が記者会見で表明した基本的方向性に基づき、これまで与党において協議を重ね、政府としても検討を進めてきました。今般、与党協議の結果に基づき、政府として、以下の基本方針に従って、必要な国内法制を速やかに整備することとします。
(1)武力攻撃に至らない侵害に際し、警察機関と自衛隊を含む関係機関が基本的な役割分担を前提として、より緊密に協力し、いかなる不法行為に対しても切れ目のない十分な対応を確保するための態勢を整備することが一層重要な課題となっています。
(2)様々な不法行為に対処するため、警察や海上保安庁などの関係機関が、各々の対応能力を向上させ、連携を強化し、命令発出手続を迅速化するとともに、演習や訓練を充実させるなど、各般の分野における必要な取組を一層強化することとします。
(3)手続の迅速化については、離島の周辺地域等において外部から武力攻撃に至らない侵害が発生し、近傍に警察力が存在しない場合や警察機関が直ちに対応できない場合の対応において、治安出動や海上における警備行動を発令するための関連規定の適用関係について十分に検討し、手続を経ている間に、不法行為による被害が拡大することがないよう、状況に応じた早期の下令や手続の迅速化のための方策について具体的に検討します。
(4)我が国の防衛に資する活動に現に従事する米軍部隊に対して攻撃が発生し、それが状況によっては武力攻撃にまで拡大していくような事態においても、自衛隊と米軍が緊密に連携して切れ目のない対応をすることが、我が国の安全の確保にとっても重要です。
自衛隊法第95条による武器等防護のための「武器の使用」の考え方を参考にしつつ、我が国の防衛に資する活動(共同訓練を含む。)に現に従事している米軍部隊の武器等であれば、米国の要請又は同意があることを前提に、当該武器等を防護するための必要最小限の「武器の使用」を自衛隊が行うことができるよう、法整備をすることとします。
(1)いわゆる後方支援と「武力の行使との一体化」(集団安全保障)
ア いわゆる後方支援と言われる支援活動それ自体は、「武力の行使」に当たらない活動です。例えば、国際社会が国連安全保障理事会決議に基づいて一致団結して対応するようなときに、我が国が正当な「武力の行使」を行う他国軍隊に対してこうした支援活動を行うことが必要な場合があります。
一方、憲法第9条との関係で、我が国による支援活動については、他国の「武力の行使と一体化」することにより、我が国自身が憲法の下で認められない「武力の行使」を行ったとの法的評価を受けることがないよう、これまで活動の地域を「後方地域」やいわゆる「非戦闘地域」に限定するなどの法律上の枠組みを設定してきました。
イ 国際社会の平和と安定のために、自衛隊が幅広い支援活動で十分に役割を果たすことができるようにすることが必要であり、このような活動をこれまで以上に支障なくできるようにすることは、我が国の平和及び安全の確保の観点からも極めて重要です。
ウ 政府としては、いわゆる「武力の行使との一体化」論それ自体は前提とした上で、他国が「現に戦闘行為を行っている現場」ではない場所で実施する補給、輸送などの我が国の支援活動については、他国の「武力の行使と一体化」するものではないという認識を基本とした考え方に立って、他国軍隊に対して、必要な支援活動を実施できるようにするための法整備を進めることとします。
(2)国際的な平和協力活動に伴う武器使用(PKO・邦人救出)
ア 我が国は、過去20年以上にわたり、国際的な平和協力活動を実施してきました。その中で、いわゆる「駆け付け警護」に伴う武器使用や「任務遂行のための武器使用」については、これを「国家又は国家に準ずる組織」に対して行った場合には、憲法第9条が禁ずる「武力の行使」に該当するおそれがあることから、自衛官の武器使用権限はいわゆる自己保存型と武器等防護に限定してきました。
イ 我が国としては、国際連合平和維持活動(PKO)などの国際的な平和協力活動に十分かつ積極的に参加できることが重要であり、多くの日本人が海外で活躍し、テロなどの緊急事態に巻き込まれる可能性がある中で、当該領域国の受入れ同意がある場合には、武器使用を伴う在外邦人の救出についても対応できるようにする必要があります。
ウ 我が国として、「国家又は国家に準ずる組織」が敵対するものとして登場しないことを確保した上で、PKOなどの国際的な平和協力活動におけるいわゆる「駆け付け警護」に伴う武器使用及び「任務遂行のための武器使用」のほか、領域国の同意に基づく邦人救出などの「武力の行使」を伴わない警察的な活動ができるよう法整備を進めることとします。
(1)いかなる事態においても国民の命と平和な暮らしを守り抜くためには、これまでの憲法解釈のままでは必ずしも十分な対応ができないおそれがあることから、いかなる解釈が適切か検討してきました。その際、政府の憲法解釈には論理的整合性と法的安定性が求められるので、従来の政府見解における憲法第9条の解釈の基本的な論理の枠内で、国民の命と平和な暮らしを守り抜くための論理的な帰結を導く必要があります。
(2)憲法第9条は、その文言からすると、「武力の行使」を一切禁じているように見えますが、憲法前文で確認している「国民の平和的生存権」や憲法第13条が「生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利」は国政の上で最大の尊重を必要とする旨定めている趣旨を踏まえて考えると、憲法第9条が、我が国が自国の平和と安全を維持し、その存立を全うするために必要な自衛の措置を採ることを禁じているとは到底解されません。
一方、この自衛の措置は、あくまで外国の武力攻撃によって国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆されるという急迫、不正の事態に対処し、国民のこれらの権利を守るためのやむを得ない措置として初めて容認されるものであり、そのための必要最小限度の「武力の行使」は許容されます。
これが、憲法第9条の下で例外的に許容される「武力の行使」について、従来政府が一貫して表明してきた基本的な論理です。
(3)これまで政府は、この基本的な論理の下、「武力の行使」が許容されるのは、我が国に対する武力攻撃が発生した場合に限られると考えてきました。しかし、我が国を取り巻く安全保障環境が根本的に変容し、変化し続けている状況を踏まえれば、今後他国に対して発生する武力攻撃であったとしても、その目的、規模、態様等によっては、我が国の存立を脅かすことも現実に起こり得ます。
我が国としては、紛争が生じた場合にはこれを平和的に解決するために最大限の外交努力を尽くすとともに、既存の国内法令による対応や可能な法整備などあらゆる必要な対応を採ることは当然ですが、それでもなお我が国の存立を全うし、国民を守るために万全を期す必要があります。
こうした問題意識の下に、我が国に対する武力攻撃が発生した場合のみならず、我が国と密接な関係にある他国に対する武力攻撃が発生し、@これにより我が国の存立が脅かされ、国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険がある場合において、Aこれを排除し、我が国の存立を全うし、国民を守るために他に適当な手段がないときに、B必要最小限度の実力を行使することは、自衛のための措置として、憲法上許容されると考えるべきであると判断するに至りました。
(4)国際法上の根拠と憲法解釈は区別して理解する必要があり、憲法上許容される上記の「武力の行使」は、国際法上は、集団的自衛権が根拠となる場合があります。この「武力の行使」には、他国に対する武力攻撃が発生した場合を契機とするものが含まれますが、憲法上は、あくまでも我が国を防衛するためのやむを得ない自衛の措置として初めて許容されるものです。
(5)政府としては、他国に対して武力攻撃が発生した場合に、憲法上許容される「武力の行使」を行うために自衛隊に出動を命ずるに際しては、原則として事前に国会の承認を求めることを法案に明記することとします。
これらの活動を自衛隊が実施するに当たっては、国家安全保障会議における審議等に基づき、内閣として決定を行うこととします。こうした手続を含めて、実際に自衛隊が活動を実施できるようにするためには、根拠となる国内法が必要となります。
政府として、国民の命と平和な暮らしを守り抜くために、あらゆる事態に切れ目のない対応を可能とする法案の作成作業を開始することとし、準備ができ次第、国会に提出し、国会における御審議を頂くこととします。
以上です。若干理解が困難な点もあるかもしれませんが、今後、内容を分けて解説していきます。
閣議決定(7月1日)
5月15日(木)に安全保障の法的基盤の再構築に関する懇談会(安保法制懇)から報告書が提出され、与党にも安全保障法制整備に関する与党協議会が設置され、我が国の国家安全保障に係る法制の再構築について本格的な議論が開始されました。しかし、安保法制懇の報告書の内容は国家安全保障に係る全ての分野に及ぶ間口の広いものであり、かつ、報告書に用いられている専門用語は一般の国民には馴染みのないものが多い状況にあります。国家安全保障に係る議論は、国家の根本に関わるものであり、何としても国民の皆さんに正確に理解していただかなければなりません。
安保法制懇の報告書の主な柱は、次の四つです。この柱をまず理解していただくことが重要です。
@ 集団的自衛権
A 軍事的措置を伴う国連の集団安全保障措置(集団安全保障)
B PKO・在外自国民の保護・救出・国際治安協力(PKO等)
C 武力攻撃に至らない事態への対応(グレーゾーン)
@とAは、「武力の行使」に関わる事態です。BとCは、武力の行使に至らない「武器の使用」の範囲にとどまる事態です。この武力の行使と武器の使用の概念の違いも難しいのですが、必ずしも実体的な違いをいうのではなく、武力の行使とは正に武力攻撃事態になるとことであり、武器の使用とは正当防衛の場合など万一の場合に武器を使用することはあるがそれを目的とせず武力攻撃事態ではない事態のことです。
憲法第9条第1項及び第2項は全体として個別的自衛権の行使以外の武力の行使を禁止しており、@及びAについては、憲法問題が絡んできます。B及びCの武器の使用については、原則として憲法問題は絡んできませんが、事態によっては個別的自衛権等との境界面で憲法議論が絡んでくることがあります。
一つ一つの概念について、もう少し詳しく説明していきましょう。
第一に、集団的自衛権です。
国際連合憲章第51条は、全ての加盟国に個別的自衛権と集団的自衛権の保有を固有の権利として認めています。したがって、自衛権には、個別的自衛権と集団的自衛権があることになります。自衛権とは、他国からの武力攻撃を受けたときに、それに武力をもって反撃する権利のことです。
個別的自衛権とは、その自衛権の行使を、武力攻撃を受けた国(被攻撃国)単独で行うことをいいます。それに対し、集団的自衛権とは、密接な関係にある国が武力攻撃を受けたときに、被攻撃国と共同して反撃する権利のこといいます。この場合、被攻撃国の武力の行使は個別的自衛権の行使であり、自国の武力の行使は集団的自衛権の行使であることになります。
集団的自衛権の行使には、関係国が同盟関係にあることは、必要ありません。また、集団的自衛権は、「権利」であって、「義務」ではありません。したがって、密接な関係にある国が他国から武力攻撃を受けても、必ず集団的自衛権を行使しなければならないわけではなく、それを行使するかどうかはその時の政策判断に委ねられます。集団的自衛権の行使を義務付けるため条約で同盟関係を結ぶこともできますが、それも政策判断の問題です。なお、一般に、集団的自衛権を行使するためには、被攻撃国の要請又は同意が必要とされています。
第二に、集団安全保障です。
「集団的自衛権」と呼び方が似ているので、よく混同されますが、基本的には、全く異なるものです。集団安全保障は、日本にとっては、国連安全保障理事会の決議に基づく加盟国への制裁措置のこといいます。「日本にとっては」というのは、国際法上は、NATOなど国連以外の地域的安全保障機関が存在しているからです。国連軍による制裁が最たる例ですが、安全保障理事会の常任理事国には拒否権が認められているため、正規の国連軍が結成されたことはなく、今後も結成される可能性は小さいと見られています。
したがって、安全保障理事会の決議に基づく制裁措置は、多国籍軍によることになります。しかし、この決議も拒否権によってなかなか成立することはなく、朝鮮戦争とイラクのクウェート侵攻に伴う湾岸戦争を挙げられるのみです。なお、9.11同時多発テロに始まるアフガニスタン戦争は、有志国連合諸国によるものであり、国連決議に基づくものではありません。
日本おいては、従来憲法第9条の下集団安全保障においては武力の行使はできないので、国際貢献は、後方支援に限られます。ただし、その際、他国の武力の行使と「一体化」してはならないこととされています。
第三に、PKO等です。
PKOは、広義の集団安全保障に含まれますが、紛争当事国の休戦協定が成立した後に国連決議に基づいて平和維持活動を行うものであり、武力制裁を目的とする狭義の集団安全保障とは全く異なります。したがって、PKOには、武力の行使を伴わないので、日本も参加することができます。PKOでは何が課題かというと、休戦協定が破れ、一部の紛争関係者から攻撃を受けたときにどういう対応がとれるかということです。基本的には、日本の派遣隊は、直ちに撤収しなければなりません。もちろん、自らを守るための最低限度の武器の使用は許されます。
日本の派遣隊の近くにあるPKOに参加する他国の軍隊や避難民のキャンプが襲撃されたときに、派遣隊が反撃できるかという課題があり、これを「駆け付け警護」の問題と呼んでいます。攻撃の主体が国又は国に準ずる組織であるときには、日本が戦争に巻き込まれる可能性があるので、その場合は駆け付け警護はできないとされています。
外国にいる邦人の武装集団などからの救出は、当該国の同意がある場合は警察権の委託として可能であると考えられています。最近、邦人の輸送が法律で認められました。今後は、例えば武装集団などによって邦人の所在地までの道路が封鎖されている場合など、任務遂行のための武器の使用が認められるかが、課題となります。
第四に、グレーゾーンです。
グレーゾーンとは、他国の軍隊とは分からない武装集団から攻撃を受けた場合など、武力攻撃事態とは認められないが、海上保安庁などの警察機関の組織装備では対処できないような事態や海上保安庁の船舶などが側におらず自衛隊でないと対処できないような事態をいいます。武装集団が日本の離島に上陸したり、日本船を襲撃したような事態を想定しています。そのような場合には、自衛隊を出動させ、一定の武器の使用を認めることを検討しなければなりません。
相手が国又は国に準ずる組織に当たらないので、武力の行使には当たらず、憲法問題は生じませんが、武装集団が国等の組織と知れた段階で武力攻撃事態に移行する可能性があり、慎重な法制の整備が求められます。
国家安全保障の課題は、これだけ間口が広いのです。これらの事例が異なる事態であることを是非理解してください。一つ一つについて更に詳細な解説が必要ですが、それは次に譲り、基本的な検討の方向性だけを簡単にまとめておきます。
@ 集団的自衛権については、世界中の国々が保有する権利であり、我が国も行使し得るようにしておくことが必要です。そこで、従来の政府の憲法解釈を変更して、我が国の安全保障に重大な支障が及ぶ場合に限って、必要最小限度の限定的な集団的自衛権を行使できるようにすることを検討します。
A 集団安全保障については、従来の憲法解釈を堅持し、他国のような武力の行使は認めません。また、後方支援であっても、他国の武力の行使と一体化することは、引き続き、認めません。ただし、何をもって一体化となるかの基準については見直しの余地があり、より国際貢献ができるようにする方向で検討します。
B PKO等では、駆け付け警護が最大の課題です。従来の国又は国に準ずる組織に対する反撃はできないというラインを維持しつつ、実質的な救援措置を講ずることができないか検討します。また、他国における邦人救出については、任務遂行のための武器の使用ができないか検討します。
C グレーゾーンについては、自衛隊がどのような行動をとることができるかを研究し、法制を具体化していきます。憲法問題はないので、防衛省を中心に検討することになります。
以上は、私見であり、政府の見解とは関係のないものであることを申し添えます。
高村自民党副総裁の第1回安全保障法制整備推進本部での講演は、実に見事でした。集団的自衛権の本質を突いた講演に、それまで党内でくすぶっていた慎重論が一気に解消した印象を受けました。一方で、マスコミが「砂川判決を根拠に」と書いたものですから、議論があらぬ所で複雑化しました。副総裁は、講演で「根拠」という言葉を使っていません。私も早くから「根拠ではない。」と言ったのですが、今なお誤った議論が繰り返されています。
また、マスコミが「限定容認論」という言葉を使って、高村理論を説明しました。こちらは、大いに奏功しました。私は、別に誰かに遠慮して限定した訳ではないので、「政府としては、限定容認論という言葉は使っていない。」と言っていたのですが、最近政府首脳もその用語を使うようになったので、私も前提なしに使ってます。
では、この「砂川判決」や「限定容認論」が、集団的自衛権の行使容認にどう関係するのか、分かりやすく解説したいと思います。そのためには、もう一度憲法第9条を復習しなければなりません。
憲法第9条第1項は国際紛争解決の手段としての武力の行使を禁止するとともに、同条第2項は陸海空軍その他の戦力の保持を禁止し、国の交戦権を否定しています。これを素直に読む限り、自衛権の行使さえ禁止しているように見えます。実際、制憲議会において、吉田茂総理は、そう答弁しているのです。しかし、朝鮮戦争の勃発に伴い、GHQ(連合国軍最高司令部)は、占領政策を変更し、警察予備隊の設立を指示しました。そして、主権回復後、保安隊を経て、自衛隊が創設されました。自衛隊発足の年昭和29年12月、大村防衛庁長官は、我が国は自衛権を行使する権利を有することを初めて国会で答弁しました。
そして、米軍砂川基地における米軍の駐留が憲法違反ではないかという憲法訴訟が提起され、昭和34年(1959年)に、自衛隊の存在に関する初めてで唯一のいわゆる砂川判決が最高裁判所で下されました。その中で、同判決は、「わが国が主権国として持つ固有の自衛権は何ら否定されたものではな」く、「わが国が、自国の平和と安全を維持しその存立を全うするために必要な自衛のための措置をとりうることは、国家固有の権能の行使として当然のこと」であることを明らかにしました。
続いて、政府は、昭和47年(1972年)に、「(自衛)の措置は、…事態を排除するためとられるべき必要最小限度の範囲にとどまるべきものであ」り、「わが国に対する急迫、不正の侵害に対処する場合に限られるのであって、…他国に加えられた武力攻撃を阻止することをその内容とするいわゆる集団的自衛権の行使は、憲法上許されない」という憲法解釈を初めて明らかにしました。
さらに、政府は、昭和56年(1981年)に、「憲法第9条の下において許容されている自衛権の行使は、我が国を防衛するため必要最小限度の範囲にとどまるべきものであると解しており、集団的自衛権を行使することは、その範囲を超えるものであって、憲法上許されない」とし、集団的自衛権が許されない理由をより明確にしました。
基本的な憲法解釈に関する情報は、これで全てです。「根拠」という変なことが言われていますが、法律を作るのに、憲法に根拠が必要などということは聞いたことがありません。大切なことは、法律が憲法に違反していないことなのです。集団的自衛権の行使が容認されるかどうかは、まず必要性、次に合憲性について十分な説明が欠かせません。ここでは、必要性の説明は別稿に譲り、憲法解釈の構造について説明したいと思います。
集団的自衛権の行使を認めるためには、昭和47年の政府解釈後段の集団的自衛権の行使を否認した部分及び昭和56年の政府解釈を更新する必要があります。それは、致し方ありません。その上で、昭和34年の砂川判決の判旨及び昭和47年の政府解釈の前段を引き続いて遵守することとするのです。すなわち、砂川判決は自衛権を「自国の平和と安全を維持しその存立を全うするために必要な自衛のための措置」と定義し、昭和47年の政府解釈はその具体的な基準として「我が国を防衛するため必要最小限度の範囲にとどまるべきもの」と規定しました。これらのことは、集団的自衛権の行使を容認する場合においても、引き継がれるものと考えたところです。
国際法上、集団的自衛権は、自国と密接な関係のある国が第三国から武力攻撃を受けたときに共同して対処する権利であり、基本的にはそれ以上の制約はありません。しかし、日本でこの集団的自衛権の全ての行使を認めることは、憲法第9条の下、できないと考えています。それが、限定容認論と言われる所以です。ではどの範囲で行使できるかと言えば、砂川判決の判旨にある「自国の平和と安全を維持しその存立を全うするために必要な自衛のための措置」に限られるということになります。そして、具体的には、昭和47年の政府解釈の基準である「我が国を防衛するため必要最小限度の範囲にとどまるべきもの」でなければなりません。
さらに、個別的自衛権に関しては、このことが「自衛権発動の三要件」に具体化されており、これについても、集団的自衛権の行使のため、最小限の修正をした上で、遵守することになります。三要件とは、すなわち、@ 我が国に対する急迫不正の侵害があること。A これを排除するために他の適当な手段がないこと。B 必要最小限度の実力行使にとどまるべきこと。であり、@のみ修正が必要であると考えています。
では、「自国の平和と安全を維持しその存立を全うするために必要な自衛のための措置」に限られる集団的自衛権とは、どのようなものでしょうか。言い換えれば、我が国の安全保障に重大な支障を及ぼすおそれのある事態に限るということでしょう。更に具体的な内容は、今後の与党協議によって具体化されるものと考えています。大まかなことだけを言えば、@ 近隣有事、A シーレーン防衛、B 同盟国に対する攻撃 などが想定されます。近隣有事においても、我が国は直接戦闘に加わらず、米軍を公海上で支援することが想定されています。しかし、我が国が武器弾薬や米兵を輸送すれば、それは、集団的自衛権の行使なのです。
以上のように、仮に集団的自衛権の行使を容認するとしても、砂川判決の判旨や昭和47年の政府解釈の基準を遵守することになります。砂川判決が、集団的自衛権を視野に入れた判決かどうかが議論になっています。しかし、それは、余り重要なことではありません。少なくとも、判決が集団的自衛権を否定していないということが事実ならば、いいのです。砂川判決は、我が国における自衛権を定義した判決です。集団的自衛権の行使を容認しても、その定義を超えることがないということが憲法解釈上重要なのです。最高裁判所の判例の判旨を逸脱しない集団的自衛権であれば、それは、合憲であると考えます。
以上は、私見であり、政府の見解とは関係のないものであることを申し添えます。
政府は、昨年策定した国家安全保障戦略に基づき、従来国会答弁や官房長官談話等で運用されてきたいわゆる「武器輸出三原則等」に代えて、新たに「防衛装備移転三原則」を閣議決定し、武器等の輸出等に関する新たな規制を行うこととしました。これは、従来の武器輸出三原則等に対する官房長官談話による例外措置が21件にも達し、再整理の必要が生じたことから、平和国家としての基本理念を維持しつつ、今後例外措置を講じないこととした上で、一定の基準の下ケースバイケースで個別の厳格審査を行うことにより、国際貢献にも柔軟な対応を可能とするものです。したがって、武器輸出の枠が拡大されたわけではなく、従来の枠の中で、個々の輸出について柔軟な対応が可能になったとみるべきものです。
従来の武器輸出三原則等の下、日本は、具体的にどんなものを輸出しているのでしょうか。まず、PKO活動に用いる油圧ショベル、中型ドーザー、バケットローダーなどの建設機械を自衛隊が外国に持ち込んでいます。活動終了後、相手国に寄贈することもあります。また、アジア地域に地雷探知機などを輸出しています。中国に対しても、日本軍の遺棄化学兵器を処理するため、化学防護衣や化学剤検知器を供与しています。このほか、シーレーン防衛のため、インドネシアなどに巡視艇や暗視装置、防弾チョッキなどを供与しています。決して、機関銃や戦車を輸出しているわけではありません。これらのものと異なる種類のものが、武器の共同開発であり、アメリカなどと戦闘機F−35を共同開発するため、部品の一部を今後輸出することとしています。
武器輸出三原則は、昭和42年の佐藤総理の国会答弁で始まりました。共産圏諸国、国連禁輸国及び国際紛争当事国へは、武器を輸出しないこととしました。しかし、これら以外の国へは、武器の輸出が可能であったのです。その後、昭和51年の三木総理の国会答弁で、これら以外の地域へも輸出を慎むこととし、実質的な全面禁輸となりました。一方で、これでは、同盟国アメリカへも部品の供与等ができないことから、昭和58年以降官房長官談話等により例外措置が繰り返され、これまで21件にも達しています。さらに、平成23年、民主党政権の下で、包括的な見直しが行われ、新たに官房長官談話で「防衛装備品等の海外移転に関する基準」が設けられ、平和貢献・国際協力及び国際共同開発・生産に関するものについては、一定の基準の下移転ができることになりました。
新三原則では、原則1に従来の三原則に相当する項目がまとめられ、化学兵器や対人地雷など国際条約で移転が禁止されているもの、北朝鮮やイランに対する核関連装備品など国連安保理決議で禁輸とされているもの及び国連安保理が安全保障措置をとっている紛争当時国に対するものについては、当然ながら移転を禁止しました。次に、原則2として、それ以外の場合は、平和貢献・国際協力の積極的な推進に資する場合及び我が国の安全保障に資する場合に限って、さらに、原則3として、目的外使用及び第三国移転について適正管理が確保される場合に限定して、個々に厳格審査をした上で移転を認めることとしました。
このことにより、移転先が外国政府や国連機関の場合は、平和貢献・国際協力に積極的な意義があるときに限り、防衛装備の移転が可能となります。また、既に認められている国際共同開発・生産のほか、我が国との間で安全保障面での協力関係がある国に対する救難、輸送、警戒、監視及び掃海に係る協力に関する装備品の移転も、可能となります。ここでは、巡視艇のような完成品の移転も可能ですが、戦闘能力を有するような武器の移転は行いません。
現在、武器輸出の許可は年間2300件程度ですが、そのほとんどが、海外で活動する自衛隊の防衛装備の修理に用いるものです。今後は、輸出の主務官庁である経済産業省と内閣官房、外務省及び防衛省が協力して、審査体制を強化し、重要な事案については、国家安全保障会議四大臣会合で審議することとします。そして、移転を許可したものについてはその内容を公表するとともに、全ての移転事案について一定の方式で年次報告を行うこととします。これにより、防衛装備の移転に関する審査手続が明確化され、国民に対する情報公開により一層の透明性が高まるものと考えています。
集団的自衛権の行使容認のような重大なことを決めるのならば、憲法解釈の変更というような姑息な手段を採るのではなく、憲法改正によるべきだという意見があります。しかし、この立論も、やや正確性を欠きます。憲法解釈の変更だけでは、世の中何も変わりません。「憲法解釈の変更によって法律改正を行うのにとどめるべきではなく、この機会に憲法も改正すべきだ。」とすべきではないでしょうか。いずれの場合でも、自衛隊法などの法律改正は必要なのです。
集団的自衛権の行使を禁じているのは政府の憲法解釈ですから、それを解除するのも憲法解釈の変更によるというのは、自然な論理であります。その後に、関係法案を策定し、国会の審議を受けるということになります。もちろん、憲法解釈の変更の過程から、与党内で了解が得られるまで議論を尽くし、野党とも国会の場で議論を尽くすことは、当然のことです。決して簡単なことと考えているわけではありません。
今は、そのことは、置いておきます。ここで述べたいのは、憲法解釈の変更と憲法改正では、質的内容的に異なることになるということです。憲法改正を唱える人たちが、どういう改正を想定しているのか気に掛かります。
自民党の憲法改正草案には、自衛権について、積極的な規定はありません。平成17年案(森本部長・舛添事務局長)では、単に憲法第9条第2項を削除しただけです。平成24年案(保利本部長・礒崎起草委員会事務局長)では、同条第1項が自衛権を否定しているように読めるという意見が強かったことから、同条第2項を改正して単に「前項の規定は、自衛権の発動を妨げるものではない。」と規定しました。ましてや「集団的自衛権」の規定などどこにもありません。
それは、自衛権は、国家の自然権であり、憲法上具体的な規定の必要性はなく、また、個別的自衛権や集団的自衛権の区別は講学的なものであり、区々に規定する必要はないという考えに基づくものでした。
もし憲法第9条の改正を検討するのであれば、陸海空軍その他の戦力の保持を禁止した同条第2項を削除しなければなりません。なぜならば、この規定は、自衛隊の存在と明らかに矛盾すると考えられるからです。その上で、自民党の平成24年案では、次条に第9条の2を新設して国防軍の規定を設けていますが、そこまで行かなくとも、自衛隊に対するシビリアンコントロール(文民統制)の規定を設ける必要があります。こうすることによって、少なくとも自衛権に関しては、その行使に憲法上の制約がないようにしたいというのが自民党の基本的な考え方です。
では、憲法第9条第2項を削除するというのは、どういう意味があるのでしょうか。これまで、政府は、同条第1項及び第2項の全体的解釈から、個別的自衛権の行使以外の武力の行使が禁止されているものとしてきました。そして、その自衛権も、必要最小限度の範囲内にとどまるべきものとしてきました。さらに、集団的自衛権は、その必要最小限度の範囲を超えるものであることから、行使できないものとしてきました。
もし、第2項を削除して第1項のみになれば、これらの政府解釈は全て瓦解し、憲法第9条はいわゆる侵略戦争のみを禁止していることになります。一方、今検討が行われている憲法解釈の変更では、当然憲法の規定は変わるわけではないので、この自衛権の行使は必要最小限度の範囲内にとどまるべきものという解釈は変更すべきでないと考えています。そこに憲法解釈の変更と憲法改正の間に、大きな質的内容的違いがあるのです。憲法改正をすると、個別的自衛権の解釈まで変更する必要が生じてきます。
もちろん、これは自民党の目指している憲法改正の方向ですし、一方で、憲法上、自衛権の行使は必要最小限度の範囲内にとどまるべきであるという規定を絶対に入れられないわけではありません。しかし、他国で、自衛権の行使の範囲を自ら制限するような憲法の規定は、見たことがありません。
是非ともこうした違いに留意して、憲法議論を行っていただければと考えています。決して、憲法改正が難しいから、憲法解釈の変更によろうとしているのではありません。
以上は、私見であり、政府の公式見解とは関係ないものであることを申し添えます。
この「私の主張」でも何度か掲載してきましたが、いよいよ集団的自衛権について議論を始めるに当たって、幾つかの点について整理をしておきたいと思います。なお、集団的自衛権は、国際法上の側面、憲法上の側面、法律上の側面に分けて議論をしなければ、議論が混乱します。このことには、留意してください。
集団的自衛権とは、言うまでもなく、自国が武力攻撃を受けていないにもかかわらず、武力攻撃を受けた他国のために、第三国に対して武力行使をする権利であります。国際法上は、現に自国の安全保障が脅かされている必要はなく、他国の要請が必要であるか否についても説が分かれています。この権利は、国連憲章により全ての加盟国に認められています。
なぜこういう権利が必要であるかは、それほど難しいことではありません。いずれの国も一国のみでは、自国の平和を守れないからであります。平和の脅威となる国に対して、外交カードとして集団でこれに当たることを予告することにより、平和を守る抑止力となることは、容易に理解できることです。一方で、集団的自衛権は決して義務ではありませんが、他国の紛争に巻き込まれる危険性があるのも、否定できません。しかし、他国を守ろうとしない国に対し、他国が万一の時にその国を助けてくれるでしょうか。このことが、集団的自衛権議論の焦点です。
なお、世界の国々中で、集団的自衛権があるかないかを議論している国は、日本以外にはありません。国際法上各国が集団的自衛権を有しているのは自明のことであり、独立国の当然の権利なのです。また、我が国おいては、自衛隊を動かすためには、法律の根拠(法律の留保)が必要であり、仮に憲法解釈を変更したとしても、直ちに自衛隊が行動できるわけではなく、必ず自衛隊法などの法律の改正が必要です。具体的にどのような集団的自衛権が行使できるかどうかは、憲法問題ではなく、法律でどのように定めるかの問題なのです。
では、なぜ、我が国では、集団的自衛権がこれだけ問題になってくるのでしょうか。それは、憲法第9条が、表見上全く武力の行使を認めていないように見えるからです。同条第1項で国際紛争解決の手段としての武力の行使を禁止するとともに、同条第2項で陸海空軍その他の戦力の保持を禁止し、国の交戦権を否定しています。おそらく憲法制定時の立憲意思としては、全ての武力の行使を禁止する意図があったのでしょう。しかし、朝鮮戦争の勃発に伴い、それでは我が国の独立を守ることができず、警察予備隊の創設へと歴史が動いていったのは、御承知のとおりです。このことが、実は、戦後最大の憲法解釈の変更だったのです。
そこで、昭和34年の砂川事件に係る最高裁判決で、我が国が自衛権を有することが明確に認められました。その後、自衛権に関する憲法上の位置付けにはかなりの時間が必要でしたが、昭和47年の政府提出資料により、自衛権の行使は必要最小限度の範囲にとどまるべきものとされ、集団的自衛権の行使は憲法上許されないこととされました。さらに、昭和56年の政府答弁書において、集団的自衛権の行使は、必要最小限度の範囲を超えるものであることから憲法上許されないものとされ、その理由を初めて明らかにしました。いずれも、海外派兵が論じられている中での解釈でした。
これらの解釈が行われたのは、我が国の経済発展期であり、まだ安全保障面において国際貢献を行うようなことがなかった時代でありました。それ以降、国際化は一層進展し、世界の国々は相互関係を更に複雑化し、中小国家においても軍事技術が進歩して核兵器の開発が行われるようになりました。一方で、国連平和活動において、自衛隊は、世界中で活躍するようになり、その存在を世界に示せるようになりました。こうした中で、日米同盟関係を一層深化させるとともに、アメリカ以外の友好国とも安全保障議論ができるようになることが、今求められています。
よく「憲法解釈の変更によって集団的自衛権の行使を容認するのはおかしい。」という指摘を受けます。しかし、憲法に規定されていることは憲法改正により、憲法解釈で決められていることは憲法解釈の変更により改めるというのは、自然な論理です。上記のように憲法解釈によって集団的自衛権の行使を禁止してきたわけですから、それを解除するのも憲法解釈によって行うというのは、正当な考え方です。
しばしば「時々の内閣によって恣意的な憲法解釈の変更が行われるのはおかしい。」と言われます。決して恣意的な変更をしようしているのではありません。内閣法制局も、従来の国会答弁で、検討の結果「至当」であれば憲法解釈の変更ができることを認めています。重要なことは、第一に、憲法解釈の変更を行わなければならない十分な「必要性」があるかどうか、第二に、新たな憲法解釈が、憲法の規定に照らし、それを逸脱せず「合憲」であるかどうかということに尽きます。この二つの要件を満たせば、憲法解釈の変更は、認められるべきでしょう。
また、我が国の集団的自衛権は、必要最小限度の範囲内のものでなければならないとすれば、それは我が国の安全保障に関係のある事態でなければなりません。我が国においては、我が国の平和と独立を守るために必要な範囲でしか集団的自衛権を行使できないと考えるべきでしょう。
仮に我が国の安全保障と関係があることを集団的自衛権行使の要件とするのであれば、「個別的自衛権を拡大することによって対処できるのではないか。」という意見が出てきます。これは、大変危険な考え方です。我が国が直接武力攻撃を受けていないにもかかわらず、我が国が武力攻撃を受けたものとみなして個別的自衛権を選択するのは、国際法に抵触する極めて不適切なことです。過去の戦争の多くが、個別的自衛権の行使と称して行われてきたことも忘れてはなりません。やはり、個別的自衛権の行使と集団的自衛権の行使は、厳格に区別すべきです。
現在、安倍総理の諮問機関である安全保障の法的基盤の再構築に関する懇談会において、この集団的自衛権の問題も含め、自衛権の行使、集団安全保障、武力攻撃に至らない侵害への対処の3分野にわたって、法制的な議論が行われています。政府としては、4月以降に行われる懇談会の報告書の提出を待って、政府としての考え方をまとめていく方針です。
以上は、私見であり、政府の公式見解とは関係ないものであることを申し添えます。
昨年施行された参議院議員通常選挙における選挙区選挙の一票の格差は、4.77倍(北海道選挙区対鳥取県選挙区)でした。当該選挙について、昨年末までに15の高等裁判所判決が出そろいました。結果は、12の「合憲・違憲状態判決」、2の「違憲・事情判決」、1の「違憲・無効判決」ということでした。
その大多数を占めた合憲・違憲状態判決というのは、昨年の選挙においては、定数是正を検討するための合理的な期間が経過しているとは言えず、当該選挙は合憲であるが、4.77倍という格差は違憲と言わざるを得ない状態に達しており、次回の選挙までに是正が行われなければ違憲となり得ると指摘するものでした。違憲・事情判決というのは、昨年の選挙は違憲であるが、選挙自体を無効とするのは社会的影響が大きいので認めないという趣旨のものであり、違憲・無効判決というのは、選挙のやり直しまで求めるという最も厳しい判決です。上告され、まだ最高裁判所の判決が出されていませんが、判決は、おおむね高等裁判所の多数の意見に沿うものと推察されているところです。
現在、平成22年の国勢調査では、一票の格差は4.75倍(兵庫県選挙区対鳥取県選挙区)となっており、一票の格差の是正は、喫緊の課題となっています。再来年の参議院議員選挙までには、是非格差是正を実現しなければなりません。
格差をどの程度是正すべきかという問題があります。選挙区を置けば、必ず格差が生じます。格差是正の議論は、どの程度までそれを容認できるかという問題でもあります。その範囲については、最高裁判所の判決にも変遷が見られますが、現在、衆議院では、格差を2倍未満とすることをルールとしています。参議院の場合も、それと同じであれば全く問題はありませんが、参議院の都道府県の区域を選挙区とする現行選挙制度を前提とする限り、かなり困難な目標でもあります。
高等裁判所の判決理由を詳細に読むと、一部に「格差が4倍を超える選挙区が6選挙区、3倍を超える選挙区が11選挙区」という表現があり、2倍を超える選挙区について言及がないものがあります。また、憲法施行後の最初の参議院議員選挙における格差は、2.62倍であったと言われています。こうしたことから、私の個人的意見ではありますが、格差は、3倍未満に抑えることができればいいのではないでしょうか。
具体的に検討してみましょう。参議院議員選挙は、選挙区と比例代表区の二つの方式が併存しています。このうち、比例代表区は、全国区ですから、格差が生じようがありません。したがって、格差の問題は、選挙区に限られます。現行制度を前提とする限り、すなわち人口最少の鳥取県選挙区の人口を1として、格差を3倍未満に抑えるためには、試算では50人の定数増員が必要になります。2倍未満に抑えるためには、おそらく100人近い増員が必要なことでしょう。参議院議員選挙は、元々少ない定数(選挙区で146人)を各都道府県に割り振るとともに、3年ごとにその半数ずつ改選されることになっており、数字の上で融通が付きにくいのです。
この50人の増員を認めるべきだというのが筋論ですが、現実問題としては、衆議院で更なる定数削減を検討している中で、極めて困難であると言わざるを得ません。したがって、何らかの選挙制度の抜本改正を考えなければなりませんが、その選択肢は、そう多くはありません。
一つは、故西岡元参議院議長が提示したブロック比例代表区への一元化です。新しい制度とすればすっきりしていますが、現行制度からの移行には、抵抗が多いでしょう。比例代表区の議員は、選挙区がブロックで分断されることから、賛成しにくいでしょうし、選挙区の議員は、人口の多い中心府県が有利になるのは明らかなことから、やはり地方部の議員を中心に賛成しにくいでしょう。政党があらかじめ候補者の順位を決める拘束名簿方式を復活して、現職優位を保障すれば合意ができるかもしれませんが、これにも様々な問題があります。
もう一つは、格差の是正ため最少人口選挙区を順次なくす選挙区の合区しかあり得ません。最大人口の東京都と最少人口の鳥取県の比は22倍ですから、このままだと、東京都は、現行の定数10人を44人にしなければなりません。格差3倍未満としても、定数16人にしなければなりません。
人口が少ない選挙区順に見ると、鳥取県、島根県、高知県、徳島県の順になります。ここまでは、人口の少ない県は隣接していますが、その次からは、そう都合良くは行きません。こうした県の選挙区を合区して定数を削減し、議員一人当たりの人口が多い都道府県の選挙区に加える操作をすることになります。しかし、組み合わせによっては、人口が少なくない府県の選挙区も合区されることがあり、その場合には、当該府県には相当の抵抗があるものと考えます。選挙区が広くなることによって、様々な負担が増えてくるからです。
最大の問題は、合区をした場合に、その人口の少ない方の県の代表をどう確保するかという問題です。比例代表区に出馬してもらうしかないのですが、コスタリカ方式で選挙区と比例代表区交替に出馬するというのが通常考えられる方法でしょう。その際、比例代表区で一部拘束名簿方式を導入して、その候補者を優遇するかどうかという問題があります。優遇すればその候補者は当選確実になるので、それに後れる一般の比例代表区の議員には抵抗があるでしょう。
順次合区をしていけば、格差を2倍未満にすることも可能です。ただし、その時、本来都道府県代表という選挙区の姿は、相当いびつなものになってしまいます。一方で、合区が少なければ、人口の多い県に加算する定数が捻出できず、そのため別途定数を増加させるか、比例代表区の定数を削減するかという手法も必要になってきます。このほか、議員一人当たりの人口が少ない現在定数4人の選挙区の定数削減も、視野に入れて検討しなければなりません。
このように合区案にも様々な問題点がありますが、現行の参議院議員選挙制度を前提として格差の是正を図っていくためには、合区を進めるしかないというのが、考え得る結論です。なお、憲法改正によって、選挙区を都道府県代表と規定するという案もありますが、都道府県という概念が憲法にはないことや具体的な定数配分の方法まで憲法に規定する必要があることなどから、これも簡単なことではありません。
現在、参議院では、各会派協議が行われており、有識者等のヒアリングが終わった段階で、座長である脇自民党参議院幹事長から座長試案が示されるのではないかと、推察しています。
自民党と公明党は、昨年、憲法改正手続法の一部改正案について、合意しました。改正法施行後4年間は、憲法改正国民投票の投票権年齢を20歳以上とするが、その後は、自動的に18歳以上に引き下げるという内容です。このことに、どういう意味があるのでしょうか。
憲法改正手続法は、第1次安倍内閣の時に、成立しました。その際、「3つの宿題」と呼ばれるなお検討を要する課題が残されました。その一つが、この国民投票の選挙権年齢を、法律の本則では18歳以上とするが、附則で、法律の施行までの間、公職選挙法や民法などについて検討を加え、必要な法制上の措置を講ずるものとされていました。かつ、それまでは、投票権年齢を20歳以上とするものとされています。しかし、この法律施行までの3年間の経過期間は、随分前に途過してしまいました。なお、今憲法改正国民投票を行えば、20歳以上の投票となるとするのが政府の見解です。
これには、民法の成人年齢を適用する法律は300本以上に及び、その整理の議論に時間を要していることもあります。しかし、法制審議会の民法部会も、成人年齢18歳を容認する結論を出しています。また、300本以上ある法律も、そのほとんどが民法の規定が改正されれば、それに倣って改正すればいいものばかりであり、実質的な議論を要するものは10本前後に過ぎないと言われています。公職選挙法についても、民法が改正されれば選挙権年齢の引下げは可能であると、当局は言っています。少年法も、同様であります。ちなみに、たばこ、酒等の摂取など健康に関わるものは、年齢を引き下げないこととされています。
では、なぜ法律改正の動きが具体化しないのでしょうか。それは、7年前の自民党政権時代に、憲法改正手続法を成立させるため、当時野党だった民主党との妥協を重ね、成年を18歳とすることについて十分な党内合意ができていないままに法律を成立させたことに端を発しています。さらに、それから7年も経つと、党所属の国会議員が多分半数以上入れ替わっており、なかなか7年前の約束だと言ってもピンと来ないのが正直なところです。こういう事情について、事務方の役人も瀬踏みをしている状況にあります。
このことについて、「自民党は約束を守らない。」という指摘をする人が他党にいますが、自民党は、7年前に憲法改正、民法、公職選挙法、少年法などをセットで18歳に引き下げることを約束したのであって、憲法改正のみを先行して18歳以上にすることを約束したわけではありません。党内には、憲法改正投票年齢を18歳以上にするのもおかしいと言う人がたまにいますが、「それは聞かれません。」と伝えています。自民党の憲法改正推進本部で出された「憲法改正のみの年齢先行引下げはおかしい。」という意見は正に正論であって、正論であるからこそ、憲法改正手続法改正案の党内意見の取りまとめに時間を掛けたのです。
一方で、与党の公明党も、自民党の成年18歳引下げが本気かどうかいぶかる向きもあり、更に検討の猶予期間を延長することには合意したものの、3年後には自動的に憲法改正投票権年齢を18歳以上に引き下げるよう求めてきたのです。その背景には、世界の国々おいては、成年は9割程度が18歳であり、そのほとんどで憲法改正投票権年齢も18歳以上とされていることがあります。そこで、自民党から「3年後」では党内を説得できないので「5年後」とすることを公明党に申し入れ、協議の結果、「4年後」とすることで合意しました。
「日本の18歳は、幼い。」という意見をよく頂きます。しかし、世界の国々の成年が18歳である中で、日本の青年だけが幼いままでいいはずがありません。立場が人を育てるとも言われます。日本の青年を大人にするためにも、成年の引下げには、前向きに取り組むべきです。
ここに至っては、この4年間の猶予期間の内に、民法等の他法の成人年齢についても18歳に引き下げるよう党内調整に鋭意取り組むことにしています。また、公明党との間にプロジェクトチームを設置し、その推進を図ることとしています。困難な課題ではありますが、日本の民主主義を進める上でも通らなければならない関門の一つと考え、努力してまいります。
今年の大仕事は、憲法改正です。その前に、集団的自衛権の行使の容認という憲法解釈の変更の仕事がありますが、このことについては何度も私見を掲載したので、今回は、憲法改正に絞った話をしたいと思います。
自民党は、一昨年の4月「日本国憲法改正草案」を策定し、公表しました。これが、自民党における憲法改正運動の基本となっています。しかし、この草案をそのまま衆参両院の憲法審査会に提出し、憲法改正手続が進むと考えている国会議員は一人もいません。なぜならば、衆参両院でそれぞれ3分の2以上の国会議員の賛成がなければ憲法改正を国会が発議することができないからです。自民党だけの考えで、憲法改正が進められるわけではありません。
したがって、草案に掲げた憲法改正事項のうち何から優先的に改正手続に着手するのか議論が必要ですが、自民党において、そうした議論をしたことは一度もありません。昨年第96条の改正条項の改正について賛否両論の意見が巻き起こりましたが、これも党の議論を踏まえたものではありません。そこで、私見ではありますが、どういった観点から優先順位を考えていくのか検討してみたいと思います。最も重要な視点は「緊急性」であり、その観点から整理してみます。
天皇の章では、元首、国旗・国歌、天皇の公的行為の規定など自民党としては改正を推進したいところですが、既に定着していることでもあり、緊急性の観点からはやや希薄と考えられます。
安全保障の章では、国防軍の設置については、その名称の如何にかかわらず、少しハードルが高いと考えられます。しかし、現行の自衛隊を憲法上位置付けることは、憲法改正に当たっては是非とも必要なことだと考えます。その場合、自衛隊の設置、自衛隊の最高指揮権、国会の統制などのシビリアンコントロールの規定は必要です。ただし、その場合、第9条第2項の「陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。」との規定は、自衛隊の設置と矛盾する規定であるので、削除しなければなりません。この規定を、草案どおり「前項の規定は、自衛権の発動を妨げるものではない。」と改正するのがベストと考えますが、議論が必要でしょう。草案第9条の3の「領土等の保全等」の規定も、追加したいところです。
国民の権利及び義務の章は、草案の規定に、緊急性という観点からは、そうでないものが多いのも事実です。ただし、第20条の信教の自由で、最高裁判所の判例を受けた社会的儀礼や習俗的行為に属する宗教的行為に関する禁止規定の例外の新設は、必要性が大きいものと考えます。自民党としては、「家族の尊重」も、規定したいところです。そのほか、個人情報の不当取得の禁止、国政上の行為に関する説明の責務、環境保全の義務、在外国民の保護、犯罪被害者等への配慮など、いわゆる新しい人権についてどう扱うか、議論が必要です。
内閣、国会及び司法の章の統治機構については、緊急性のあるものは少ないのですが、この際整理しておきたいものが幾つかあります。国務大臣の国会出席義務の例外、内閣総理大臣が欠けたときの臨時代理、裁判官報酬の例外的引下げの規定は、憲法の根拠なく事実上運用で対処している事柄であり、改正案に盛り込みたいところです。
財政及び地方自治の章も、緊急性のあるものは少ないのですが、第89条第2項の「公の支配に属しない慈善、教育若しくは博愛の事業に対」する助成の禁止規定については、私学助成の推進の観点から改正をしたいところです。
緊急事態の章は、草案の策定に当たり、自民党のプロジェクトチームで一章書き下ろしたものであり、世界の憲法を見ても緊急事態の規定のないものはほとんどなく、是非とも規定を追加したいところです。草案では、緊急事態宣言が発せられたときは、緊急政令の制定、地方公共団体の長や国民に対する指示、国会議員の任期の特例の設定等ができることとされています。内容は、法技術的なものですので、議論を尽くせば、多数の合意を得ることができると考えます。
改正の章は、賛否両論ありますが、国民投票のある憲法改正手続で、二院のそれぞれで3分の2以上の賛成が必要であるという改正規定は、世界で一番厳しいものであり、見直しをすべきものと考えます。最初から手続規定を改正するのはおかしいという意見もありますが、改正規定も憲法の規定の一規定であり、先であろうと後であろうと国民の意思で改正するのであれば構わないはずです。
以上、緊急性という観点から自民党の草案を見てきましたが、上記に掲げた規定以外のものは改正する必要がないとしたわけでは決してありません。一つの整理として、考えてください。なお、このほかにも、参議院議員選挙の格差是正が課題となっており、憲法上の手当てが必要ないかということも、議論に上がってくるでしょう。
最初に述べたとおり、以上は私見であり、自民党の公式見解とは関係ありません。