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私の主張

第2次安倍政権の功罪
(9月19日)
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PDFファイルは、こちらから。

1 始動
2 外交・安全保障
3 経済
4 内政
5 憲法改正
6 不祥事等

 安倍晋三内閣総理大臣が、体調崩し、7年8か月に及ぶ第2次安倍政権の下、退陣することを決意しました。私も、第2次政権当初から2年10か月内閣総理大臣補佐官を務め、その後農林水産副大臣として2年2か月政府にあり、安倍政権を支えてきました。その間私の知り得た安倍政権の功罪について、まとめてみたいと思います。

1 始動

 民主党政権が3年近くになり、政権奪回へ焦りが募っていました。その年の9月には任期満了に伴う自民党総裁選挙が迫っていました。谷垣禎一総裁は、野党党首としてふるさと対談を始め党再生のため本当に尽力されていましたが、民主党を総選挙に追い込むにはまだ時を要していました。「礒ちゃん、総裁選挙どうする。」と初めて聞いてきたのは、地元の先輩で予算委員会理事を一緒に務める衛藤晟一参議院議員でした。「私も安倍さんしかないと考えていますが、町村派ですからね。」と答えました。私は、1年生議員ではありましたが、予算委員会での質問などを通じ、党の内外で少し名前が出始めていました。清和政策研究会(町村派)の幹事を務め、派閥でも役員をしていました。

 その後、衛藤参議や古屋圭司衆議院議員と何度か会合し、「安倍を支持する人間を少し集めよう。」ということになり、私は清和研の中で所属議員の動向を探ることになりました。最初は内緒で何回か会合を持ちましたが、次第に人が増えてくると、党内にも漏れてきました。自民党の参議院幹事長で参議院町村派清風会会長を務める谷川秀善参議院議員から、清風会総会の場で「安倍は何と言っているんか。」と何度か責められることになりました。清和研の役員で安倍さんに動いているのは、私だけだったのです。

 有志の会合では、「そろそろ安倍さんにも来てもらおう。」ということになり、参加していただきました。こういう会合ではすぐにセンターに座ろうという人が多いので、私がセンターに陣取ってそれを阻んでいました。現内閣官房長官の菅義偉衆議院議員は、いつ来ても隅の方に座っており、逆に「すごい人だな。」と感じていました。私の両横で、主戦派の衛藤参議と慎重派の西田昌司参議院議員が大声でけんかをしていました。その間、安倍さんは黙って各人の発言を聞いており、会合では一言も発言しませんでした。

 8月に入って支持者を集めるための組織を作ろうという話になり、経済財政研究会(仮称)を立ち上げることにしました。柴山昌彦衆議院議員が作ってきた設立趣意書に私がたくさん手入れをしたので、柴山代議士が憤慨したのをよく覚えています。それを持って衆議院議員会館内の安倍事務所を何度か訪ね、説明しましたが、安倍さんからは何ともはっきりしない返事しかもらえませんでした。ところが、下旬になってもう一度訪ねたところ、「これでいいです。」という回答をもらいました。私は、「本当にいいのですか。」と、聞き返しました。安倍さんが第1次政権を投げ出したこと、病気のことを心配していたのはもちろんのことですが、総裁選挙に勝つ見通しが立っていなかったのも事実でしょう。

 私が経済財政研究会の了解をもらったと関係者に告げると、「安倍立候補」の話は、一気に公のものとなりました。参議院議員らの清風会総会が開かれ、また谷川会長から私に説明が求められました。私は、「安倍さんが、清和研がどうとか、町村会長がどうとか言っているのではありません。日本のためにもう一度立ち上がりたいと言っているだけです。」と、長い演説をさせてもらいました。その後、各人の発言が続き、何と清風会は最終的に「自主投票」を決めたのです。清和研の衆議院幹部には全く想定外のことであり、結局、総裁選挙が終わるまで清和研の総会は1回も開催されませんでした。

 町村信孝清和研会長のことは多くを述べませんが、その後総裁選挙の最中に脳梗塞で倒れられたのは、御承知のとおりです。政権復帰後に政務に復帰され、その後、私は、できるだけ町村会長に寄り添ってきたことは申し上げておきます。衆議院議長就任後すぐに再び病に倒れられ、帰らぬ人となったのは、本当に残念なことでした。

 今考えるとうそのようですが、安倍陣営に勝つ見込みがあった訳ではありません。石破茂衆議院議員が地方部に圧倒的な人気を持っており、石原伸晃衆議院議員もかなり強いと見ていました。ホテルに設けた選対本部に、政治評論家の故三宅久之さんが押し掛け、「こんなことで勝てるのか。」と怒鳴りつけられました。そのホテルもお金がなくなり、選対本部は、党本部に引っ越しました。石原代議士が立候補を断念した谷垣総裁の下で幹事長であったことから批判を浴びるようになり、見通しに若干の変化が生じてきました。その後、麻生派、高村派が合流することになり、明るさを増してきました。それでも、「党員投票で第2位につけ、国会議員票を含めた決戦投票で逆転する。」というのが陣営の基本方針であり、合い言葉になりました。

 総裁選挙が始まり、私と柴山代議士が立候補受付に出席し、私が一番くじを引きました。陣営では、甘利明衆議院議員が選対本部長に就任し、現厚生労働大臣の加藤勝信衆議院議員が衆議院の事務局長を、私が参議院の事務局長を務めることになりました。すぐに地方遊説が始まり、私も各地に出掛けました。これも今信じられないことですが、遠隔地では、安倍さんの同行は私設秘書と私だけという所も多かったのです。その時の安倍さんのブログに「礒崎さんは、いつも大衆の中にいる。」というコメントがありましたが、私しかカメラマンがいなかったので私が街頭演説にお集まりの皆さんの位置でカメラを構えて街宣車の上の安倍さんを撮影していたのです。その写真で安倍さんのホームページは作られていました。

 総裁選挙の開票が始まると、石原代議士の地方票が余り伸びていないことが分かってきました。その一方で、石破代議士は確実に地方票を積み上げていました。結果、念願どおり第2位につけ、決選投票に進めることになり、一同ほっとしたところです。そこからは、なりふり構わない国会議員に対する多数派工作が始まりました。私も、現参議院幹事長の世耕弘成参議院議員の指示の下、動き回りました。ただし、昔と違うのは、お金が動くことは一切ありません。その後のことは、皆さんが御承知のとおりであり、安倍さんが自由民主党総裁に返り咲きました。正直に言うと、総裁になった途端に安倍さんとの距離感は相当大きなものになり、私は、しばらくさみしい思いをしていました。

 この段階では、安倍さんは野党の党首になっただけですので、敵は与党民主党にあり、政権奪取をしなければなりません。そのためには総選挙をしてもらわなければなりませんが、解散権は野田佳彦総理のみが持っており、おいそれと行使してもらえるものではありません。政権奪取までの経緯についてはマスコミの報道により明らかになっているとおりですので、省略します。総選挙の後年末に特別国会が召集され、首班指名を経て組閣が行われました。その中で、私は内閣総理大臣補佐官を拝命しました。1回生の国会議員がこの職に就くのは、異例であったと思います。

2 外交・安全保障

 今は、新型コロナウイルスの感染で世界中が大変な事態になっています。この事態に的確に対応するのが、政治の最大の課題であることは言うまでもありません。その間接的な政治への影響としては、東京オリンピック・パラリンピックの1年延期もさることながら、外交、特に首脳外交が停滞していることを指摘できます。今年に入ってから、安倍総理が最も得意としている外交の分野での動きがほとんどありませんでした。サミットも中止となり、中国の習近平主席の訪日も延期されました。安倍総理としては痛手だったと思います。

 安倍総理は、就任直後から「地球儀を俯瞰(ふかん)する外交」を掲げ、世界を飛び回りました。最初の1年間で30か国程度を訪問しました。こんな総理は、かつていませんでした。米中ロの超大国の首脳全てと対等に話ができる首脳は、他国にはいません。世界中の国が安倍総理の調整手腕に期待していました。今までの総理は、外交は、内政の合間に行っていました。しかし、安倍総理は、外交を自身の政策の第一に掲げました。それは、安全保障が総理の頭の真ん中にあったからです。国を守る。為政者として最も重要なことであるのは、言をまちません。しかし、長い平和の中で、必ずしも実質的な政策をもって実現の努力がされてきたわけではありません。安倍総理は、それでは駄目だと考えていたのです。正に安全保障のための外交であったと、私は、考えます。

 総理補佐官であった私は、外交そのものにはタッチはしていません。この分野では、外務省出身の兼原信克内閣官房副長官補が大変努力してくれました。私が担ったのは、外交・安全保障を担う国内体制の整備でした。国家安全保障会議の改革、特定秘密保護法の制定、平和安全法制の整備でした。後に特定秘密保護法や平和安全法制が大変な事態になってくるのは、皆さん御承知のとおりであり、一人で多くの「嫌われ役」を引き受けることになりました。

 外交・防衛の司令塔を作りたいというのが、安倍総理の希望でした。従来、役所の幹部が官邸の総理を訪ね、個別に施策の説明をして、「総理の了解を得た。」と関係所に報告して世の中が動いていました。安倍総理は、これでは外交と防衛のすり合わせが全く行われず、有効で体系的な安全保障政策はできないと考えたのです。そこで、従来ある国家安全保障会議を改組し、機動的にすることを指示しました。有識者会議では、総理出席の下、座長を置かず、私がずっと進行を務めました。様々な観点がありましたが、要は、安全保障に関する決定は、国家安全保障会議の全体会議ではなく、総理、官房長官、外務大臣及び防衛大臣の4大臣のみで定期的に会合して決定することとしたのです。

 実は、役人時代、私が安全保障担当の内閣参事官の時に、国家安全保障会議の改組の法律改正を行っており、役人時代に行った仕事を政治家としても再び行うという巡り合わせになりました。その時の上司に内閣官房副長官だった安倍さんがおり、私が政治の道を選んだのも、その出会いが影響したのかもしれません。会議の事務局の名称は、安倍総理が私の地元に来県した折に、大分空港の応接室で「国家安全保障局」とすることを決めました。この法案は、国会でも大議論にはならず、成立しました。

 特定秘密保護法がこんな大事になろうとは、考えていませんでした。なぜならば、同法案は、民主党政権時代にほぼ出来上がっていたものだからです。アメリカと安全保障に関する情報を共有するには、秘密の漏えいに国家公務員法上の罰則しかない我が国の仕組みでは不十分であり、公務員に対する罰則強化を目的とするものでした。私が民主党政権の法案に修正を指示したのは、題名が「特別秘密保護法」であったので、あんまりだから「特定秘密保護法」にするようにということだけでした。民主党政権が作った法案だから、同党も賛成してくれるはずだと高をくくっていました。

 この事務を補佐してくれたのは、警察庁出身で現国家安全保障局長の北村滋内閣情報官です。彼は、官邸のアイヒマンなどとやゆされていますが、本当に真面目で職務に忠実な立派な公務員です。彼と一緒に与野党回りましたが、最初の頃は、それほど反対の声も大きくないと感じていました。マスコミも、新聞の方は初期には大きな反対論もなかった記憶しています。火の手が上がったのは、テレビのワイドショーでした。誰が仕掛けたのか知りませんが、「居酒屋でオスプレイの話をしたら、逮捕される。」などと根も葉もないことを言い始めたのです。私がテレビに出演したときも、有名なキャスターが真顔で私にそう質問するのです。

 火消しに努力しましたが、新聞も攻勢に転じ、正しい情報を伝えてくれないようになりました。その状況を見て、国会対応も大変になるので、専任の国務大臣を置いてもらえないかという話がありました。私は、現法務大臣で参議院同期の森まさこ参議院議員を推薦しました。このことは本人も知っており、後に「学校で子供まで大変なことになっているんだから。」と、叱られました。本当によくがんばってくれたと、今でも感謝しています。

 安全保障の最後の仕上げは、集団的自衛権を含む自衛隊法等の改正でした。早い段階で、私から安倍総理に「現行の憲法9条の解釈は、変更できません。必要最小限度の自衛権しか行使できないという解釈の下での集団的自衛権でよろしいですか。」と、聞きました。安倍総理は、「それで結構です。」と答えました。有識者会議を設置し、現JICA理事長の北岡伸一国際大学学長に座長をお願いしました。私も有識者会議の議論に毎回参加していましたが、「どうぞ先生方の御自由に議論してください。ただし、政府としてその御意見を取り入れられるかどうかは、別の話です。」と、申し上げていました。案の定、有識者会議の答申が公表されたその日のうちに安倍総理が記者会見でその一部を否定するという事態になりました。しかし、有識者会議が意味がなかった訳ではなく、安全保障に関する大変濃い有意義な議論ができたものと、今でも考えています。

 与党調整が始まりました。私から安倍総理に「公明党との調整は高村さんに、党内調整は石破さんにお願いしてはどうですか。」と、進言しました。総理は、「それがいいね。」と、その方向で動いてくれました。両先生には、本当に御尽力いただき、何とか与党案をまとめていただきました。公明党との調整には、水面下で菅官房長官が動きました。防衛省出身で安全保障担当の高見澤將林内閣官房副長官補も、本当によく努力してくれました。その頃、外務省から抜てきした小松一郎内閣法制局長官が病気で倒れ、残念なことをしました。私にも、誠実に尽くしてくれました。その後、法務省出身の横畠裕介長官が後を引き継いでがんばってくれました。
 
 法案を国会に提出した後に、「平和安全法制」などと名前を付けましたが、その後の審議に至難を極めたのは、皆さん御承知のとおりです。田原総一朗さんのテレビ番組で、民主党の枝野幸男幹事長とも、直接対決しました。その後、私にも、災厄が降りかかりました。地元の私の後援会の集会で、「必要最小限度というのはその時々の国際情勢により変化するものだから、そこは、法的安定性の問題ではありません。」と発言したところ、国会で問題とされたのです。政府の公式見解に沿った発言だったのですが、読売新聞だけが記事にしました。地元の会合にはNHK始め、朝日新聞、毎日新聞など礒崎番の記者が全員来ていたのですが、翌日記事にしたのは一社だけでした。その後更に大騒ぎになり、参議院の安全保障特別委員会では、故鴻池祥肇委員長からもお叱りを受けました。特別委員長に同氏を推薦したのは、私だったのですが。紆余曲折を経て、マスコミ的には強行採決という形で法案は成立しました。

 安全保障の議論はなかなか国民一般にはぴんとこないものですが、こうした制度改正を通じ、アメリカとの関係、すなわち日米安保体制はより強固なものとなり、安全保障政策の国内調整もきちんとできるようになりました。後世には、安倍政権の最大の功績と評価されるものと、私は、自負しています。

 外交では、北方領土問題と拉致問題が残された課題となりました。両方の困難な課題に対してこれだけの努力をした総理は安倍総理を除いてはいませんでした。ロシアのプーチン大統領とは、30回を超える首脳会談を行いました。しかし、領土問題にはロシア側にも国内的に譲れない一線があり、それを突き崩すことはできませんでした。拉致問題も、安倍総理は、本当に心血を注いできました。国民の目には何もしていないように映るのでしょうが、水面下で様々な調整をしているのです。現実にも米朝首脳会談において、アメリカのトランプ大統領が言及する所まで漕ぎ着けました。それでも、北朝鮮という国が尋常の国ではないことは、御承知のとおりです。被害者家族が高齢化し、お亡くなりになる方も出て来ました。一刻も解決を急がなければならないのは、誰が政権を取っても当然のことです。このほか、イージスアショアの配備断念に伴うミサイル防衛の強化の課題がありますが、次期政権の宿題となりました。

3 経済

 「失われた20年」と当時言われていました。昭和のバブル経済が終えんするまでに国民所得は確実に向上してきましたが、平成に入ると実質経済がそれを支えるだけの伸びを示さなくなり、我が国自慢の終身雇用体制が壊れてきました。そこに非正規雇用という新たな仕組みが導入され、格差社会が大きな問題となってきました。安倍総理は、景気回復こそが格差社会を解決する最大の政策であると考えたのです。後に「アベノミクス」と呼ばれる三本の矢を示しました。金融政策、財政政策及び規制緩和を機動的に実施することを指示しました。特に日本銀行がバブル経済の立ち直りの中でインフレを極端に恐れ、金融緩和を十分に行っていないという批判は自民党内部にも大きく、アベノミクスは歓迎をもって迎えられました。

 その結果、株価は民主党政権時代の3倍にまで回復し、デフレ経済から脱却したのは、誰の目にも明らかでした。規制緩和が進んでいないと経済界はいつも主張しますが、そんなことはありません。エネルギー、通信、医療、農業の分野を始めかなりの分野で規制緩和は進みました。日銀は、緩やかなインフレ経済を目指し、2パーセントのインフレターゲットを設定しました(正式にはそうは言っていませんが。)。景気の緩やかな回復は続いていましたが、野党からは実質賃金が上がっていないとの批判を受けました。賃金の引上げについては、安倍総理が自ら経済界に要請するというこれまでの総理が絶対にしなかったことを行いました。もちろん、その成果もあり、名目賃金は上昇しました。各府県の最低賃金の引上げにも、強く努力しました。

 一方で、デフレ解消後、日銀が目指す2パーセントのインフレがなかなか実現しませんでした。日銀がいつも「潤沢な資金を供給している。」と言っているのは事実ですが、明らかに経済学で言う「流動性のわな」の状況に陥っていました。利子率が余りに低いと投資意欲が上昇してこないのです。同じことは市中銀行にも当てはまり、資金はあるのですが、低金利政策の中でハイリスクを取れなくなっており、融資の審査は一層厳しさを増しています。政府関係金融機関も、政府の掛け声にもかかわらず、慎重な貸出しを続けています。このことにもっと皆さん気付かなければなりません。

 この分野では、現経済担当大臣である西村康稔衆議院議員が長年努力してきました。やはりイノベーション(発明発見)が最大のポイントになります。医療や農業分野を始めとし、政府のてこ入れにより広範な分野で研究支援を続けているのは、御承知のとおりです。しかし、景気を大きく支えるほどの新規事業が見いだせないのも事実です。もうパソコンも機能的には行き着く所まで至り、今はスマホやタブレットの時代となりました。新しい通信規格の5Gが注目されていますが、景気を支えるレベルのものにはならないでしょう。自動運転、AI、ロボットなどに期待が集まっていますが、どれだけの景気押し上げ効果があるでしょうか。

 私は、安倍総理への最後の質問になった参議院決算委員会で、「公共事業は、かつての半分程度に減少しています。その上、地方単独事業は、かつて公共事業の倍近い20兆円を超えていたが、4分の1程度に落ち込んでいます。これが地方不況の原因です。」と質問しました。率直に言って、地方財政は、安倍総理の不得手の分野でした。ひとり安倍総理というよりも、政界財界学会マスコミを通じて地方財政を理解している人は、本当に少ない状況にあります。

 安倍総理が、野党に言われるまでもなく、賃金を上げることが景気回復へつながる道であることは、誰よりもよく分かっていました。だから、賃上げを求め、最低賃金を引上げ、同一労働同一賃金の原則を法定化したのです。私が野党時代菅直人総理に同一労働同一賃金の質問をしましたが、けんもほろろの答弁しか返しませんでした。今必要なことは、緩やかなインフレーションを起こし、わずかでも金利をまともなレベルに戻すことです。誰が経済のかじ取りをしても難しいことであり、従来的な財政金融の手法では難しいかもしれません。新型コロナウイルスの影響で、働き方改革が一層進展しています。こういう時は、観光、芸術など余暇を含めた文化的事業に国民の支出を振り向けていくことが重要ですが、倹約好きな日本人には簡単なことではありません。

4 内政

 内政分野は、安倍総理がかつて党内で社会部会長を務めていたことから、厚生労働分野はある程度の見識を持っていますが、その他の分野については、余り詳しいわけではありませんでした。内政は、菅官房長官が多くを担っていたと言われています。菅長官が主に担っていたのは、総務大臣の経験から自治、郵政通信の分野に加えて、農業分野です。官房長官は、それだけでも大変な職務ですから、内政全体を総合的に差配することは難しかったと思います。事務の杉田和弘内閣官房副長官は、私が内閣参事官の時代に内閣危機管理監として仕えた上司でもあります。警察庁出身であるので、災害対応等危機管理の方面では他の追随を許さない安定感がありました。霞が関にもにらみは利いていましたが、経済政策の面は必ずしも得意ではなかったと思います。

 この分野で、跋扈(ばっこ)したと言われているのが、経済産業省出身の今井尚哉首席総理秘書官(現総理補佐官兼務)ら総理秘書官の皆さんです。今井さんは、役所は違いますが、役所の年次は私と同じです。首席秘書官は誰がやっても嫌われ者になるのですが、今井さんは嫌われ者としての真骨頂を遺憾なく発揮していました。私は、評価しています。安倍総理の信頼も、大変厚かったのです。もう少し霞が関の役所がきちんと付いて行ければ良かったと思います。

 社会保障面でも、上記の賃金や雇用の面のほか、保育待機児童問題にも相当力を入れてきました。いつもこの問題を野党は追及しますが、政府は何十年も前からこの問題に真剣に取り組んでいるのです。女性の社会進出がそれを上回る速度で進んでいることから、今なお待機児童が存在しているのです。そうは言っても、個々の母子にとってはかけがえのない時期時間ですから、更に努力を傾けていかなければなりません。内政の問題は、東京一極集中にあります。地方創生は、地方からも評価され、順調に進展しています。しかし、一番大事な地方への人口の流れが起きていないのも事実です。東日本大震災からの復興など災害復旧に全力を尽くしてきたため、それ以外の分野で地域施策が少なかったことも、安倍政権の課題であったと言えるでしょう。

 マスコミが役所の不祥事は安倍一強のせいだと書いていますが、そんな理屈はおかしいと思います。やはり霞が関全体の能力が落ちているのです。現役の役人に聞いてみると、官邸からの発注が増えてきたのは、事実だそうです。そのため、最優先で処理しなければならず、懸案事項について十分積上げをする時間がないとこぼしていました。そうなのでしょうが、それは安倍一強が原因ではないでしょう。役人にも、官邸と十分渡り合えるだけのパワーを持ってほしいものです。そう言うと、内閣人事局が幹部人事権を持っているから、何も言えなくなっているとマスコミが書きます。官邸の意向を無視する霞が関の群雄割拠は、民主主義に反するものとマスコミもかつて批判をしていたはずです。ああ言えばこう言うでは、困ります。

 不祥事に伴う財務省の地位低下が、これに拍車を掛けています。本当に天下国家を論じ、霞が関をリードしていく役所がなくなってしまいました。内政面では、財務省出身の古谷一之前内閣官房副長官補が人に見えない場所で本当に努力していました。ただし、副長官補というのは官僚の中では相当高位ですが、内政全体を動かすには役職として不足だったかもしれません。特に皇室関係では、私の自治省同期の河内隆元内閣総務官や一期下の山崎重孝前内閣総務官(いずれも前現内閣府事務次官)ががんばってくれました。

 私は、外交安全保障の分野では国家安全保障会議を設置し、経済財政の分野では経済財政諮問会議が既に設置されていることから、その他の内政分野についても内閣の意思決定の場を設けてはどうかと考えています。この内政分野だけそういう機能が官邸にないから、従来の茶坊主型の政治過程がいまだに横行しているのです。もう密室政治の時代ではありません。是非検討してほしいと思います。

5 憲法改正

 安倍総理の自民党総裁としての最大の課題であった憲法改正は、任期中に成し遂げられることはありませんでした。その最大の原因は、集団的自衛権の容認を含む平和和安全法制が憲法違反だとし、野党側が立憲民主党の枝野代表を筆頭に「安倍政権の下では憲法改正はしない。」と言い出したことにあります。憲法改正は、立法権である国会の仕事であって安倍内閣とは直接関係ある話ではありませんが、そういうことを唱えても聞く耳を持ちません。もちろん野党の一部には、こうした立憲民主党を中心とする勢力の考えに同調しない人たちもいます。

 与党にも問題がありました。自民党の憲法改正推進本部は、総裁の直属機関とされており、安倍総裁がもっと明確にリーダーシップを発揮すべきだったと考えます。私は、衆議院議員の保利耕輔本部長の下で、憲法改正草案を起案しました。野党時代であったので、自民党の目指す憲法改正の方向性を何の遠慮もなく織り込むこととしました。そのため、草案がそのまま具体的な憲法改正原案になることは、想定していませんでした。保利先生は、党内の信任が厚く、正に真摯に憲法改正に取り組んでいました。しかし、選挙区の事情で突然次期出馬を取り止め、本当に残念なことでした。

 その後を受けた衆議院議員の船田元本部長も、長く憲法改正に携わっており、その補佐をした中谷元衆議院議員と共に野党にも太いパイプを持っていました。私も、お二人の下で仕え、共産党及び社民党を除く全政党参加の協議会を設け、選挙権年齢の18歳引下げ法案等憲法改正環境の整備のため、努力しました。そんな折、衆議院の憲法審査会において自民党が招致した長谷部恭男東大教授が政府の平和安全法制を批判するという事件が起きました。そのことから党内右派から批判が起き、残念なことにその後本部長の交代を余儀なくされました。その後を受けた衆議院議員の森英介、故保岡興治両本部長は、どういう訳か、また誰の進言か、任期中憲法改正の勉強会ばかり開いて、具体的な話は全く進みませんでした。

 安倍総理も、さすがに焦ってきたものか、憲法記念日に自ら任期中に憲法改正することを明確に訴えました。憲法9条の改正は将来課題と考えていただけに、私には、安倍総理がそれを持ち出したのは意外でした。私は、安倍総理に「党内をまとめられるのは、細田先生しかいないのではないですか。」と話していました。私も、直接清和研会長でもある細田博之衆議院議員にお願いしましたが、「憲法は、私の仕事ではありません。」と固辞されていました。その後の経緯は知りませんが、結局細田代議士が本部長に就任されることになりました。私としてはうれしかったのですが、その時点で既に2年間を浪費していたのです。就任後、細田本部長は、憲法改正素案の取りまとめに全力を尽くしました。久しぶりに党内で活発に大議論が行われ、四つの項目に絞った素案が出来上がりました。

 その折、党内では静かな路線対立が起きていました。憲法改正に係る公明党との調整は、平和安全法制に引き続いて衆議院議員の高村昌彦副総裁が当たっていました。公明党の中では、平和安全法制を通じて自民党に妥協しすぎたのではないかとの意見も強くなっていました。公明党は「加憲」は認めるという立場だったのですが、特に山口那津男代表を中心に慎重な姿勢を示すようになりました。そのため、高村副総裁は、憲法改正素案について公明党との与党協議をすることは難しいと判断し、その旨安倍総理に報告しました。細田本部長は、「与党一体の原則の下、何でも公明党と話し合ってきたではないですか。どうして、憲法改正だけ、話し合いをすることさえできないのですか。」という考えでした。そのことが細田本部長の辞任へとつながり、下村博文衆議院議員が後任となりました(現在、細田本部長が再任されています。)。

 もう一つの問題は、「憲法改正案は、衆参の憲法審査会で議論する。」ということが、いつの間にか党の公式見解になったということです。私は、憲法改正推進本部で、「そんなことを党として正式決定した記憶はありません。憲法改正に絶対反対の共産党や社民党がいる場で、憲法改正案の具体的な取りまとめができるわけないではありませんか。」と訴えていました。私は選挙権年齢の引下げなどで活用したように与野党の協議会を設置すべきであると主張していましたが、与党公明党との協議ができない以上野党も入れた協議会を設置することは困難であったのでしょう。ここに憲法改正への道程に大きなネックが生じました。

 私は、安倍総理が党総裁としてもっと早くもっと明確に憲法改正の方針を示すとともに、役員人事を含め憲法改正推進本部の運営にしっかりと介入すべきだったと考えます。そして、公明党との調整に自ら動くべきだったと考えます。憲法改正が安倍総理の最大の目標であったことは、側にいてよく分かります。その割には、動きが緩慢としていたというのが私の率直な感想です。個人的なことを申し上げれば、政府部内で重用していただいたことは心から感謝していますが、党の中に置いていただければ、もう少しお役に立ったかもしれません。

6 不祥事等

 マスコミが指摘している不祥事について、明確に解説しておきます。

 まず、世間を大きく騒がせた森友学園事件についてです。この事件は、財務省による公文書改ざんという大きな事件に発展しました。最初に申し上げておきますが、昭恵夫人の動きがあり、そこに役所が忖度する余地があったことは否定しません。しかし、それがこの事件の本質ではありません。マスコミが余り報道しませんが、国土交通省航空局が管理する大量の廃棄物を含む不良物件があり、それを何とか処分しようとする大阪航空局とそれを少しでも安く買い叩(たた)こうとする森友学園側との暗闘こそが、この事件の実態です。それに普通財産の処分を担当する財務省や近畿財務局が後から関わってきたという構図です。

 後に会計検査院が指摘しているように、籠池氏側が強迫した結果売却額の割引が異常な額になったのは事実です。だから、役所を守ろうとする当時の理財局長は、国会で正直に答弁できなかったのです。しかし、検察庁が最終的には背任罪まで問うことはできなかったように、違法とまでは言えないぎりぎりの所で役所は仕事をしていたのです。それでも、公文書の改ざんは、言語道断であったことは、言うまでもありません。

 確かに森友学園事件は、まだ全容が解明されたとは言えません。国会答弁との整合性を保つためと財務省は説明していますが、なぜ理財局長が公文書改ざんまでしなければならなかったのか、なお不明な部分があります。私はもう少し調査をした方がいいと考えていますが、それをするとけが人が増えるので、役所は嫌がっているのでしょう。いずれにしても、たまたま昭恵夫人が同学園の知己であり、やらずもがなの照会を役所にしたという以上に安倍総理とこの事件の関係はありません。

 つぎに、加計事件、この件は、私は「事件」と呼ぶのもおこがましいと考えています。単に加計学園の理事長と安倍総理が友人であったということだけで、野党が事件化しようと企てたものです。故加戸守行前愛媛県知事が証言しているように、同県への同学園の獣医学部の誘致は、地元では前々から進められていたのです。しかしながら、文部科学省が獣医学部の新設は従来認めない方針であったため、特区制度を活用することになりました。しかし、そうなるともう一度最初から公平な募集をしなければならず、本当に公平に行われたのかどうか国会で質疑の対象とされました。その中で、忖度なのかどうかは分かりませんが、内閣府の役人や総理秘書官に不可解な動きが一部あったのも事実です。

 しかし、それは安倍総理とは全く関係のないことであり、それを疑わせるような事実も出て来ていません。獣医師の所管は農林水産省であり、当時農林水産副大臣であった私にも関係のある事件でした。私は、当初、「農林水産省は、絶対にうそを言ってはいけません。」と、職員に厳命しました。おかげで、他府省が野党の追及を受ける中、農林水産省がこの件でお叱りを受けることはありませんでした。政府全体としては、法律に基づいて適切に公募手続が行われたものと考えています。

 「桜を見る会」については、大いに反省しなければならない点があります。桜を見る会が政権のある意味利権とされていたのは、過去の自民党政権や民主党政権でも同じことでした。しかし、そんなことは知りませんでしたが、安倍政権の期間中大幅に開催規模が拡大したのは事実です。しかも、予算額を増やさず、決算額で調整するという姑息な手法が採られていました。安倍総理本人が指示したのではなく、役所に責任があると信じていますが、監督責任は免れないでしょう。せっかくの会ですので、開催方法を見直した上で継続することを検討してほしいと思います。

 それに対して、安倍事務所が開催した桜を見る会の前夜祭については、全くの言いがかりであると考えます。飲食を伴う政治パーティの飲食費の支払は、政治団体が収納する場合と飲食店に直接支払う場合があり、どちらでも構わないのです。実態のとおりに計上するのが正しいやり方です。会費がホテルの単価より低いという指摘もありましたが、この種のパーティでは、食数は参加人数よりもかなり抑えるのが普通です。いずれも何の問題もありません。
 
 第2次安倍政権の中で、10人の閣僚が辞任しているということです。決していいことではありません。職務に関連したものは僅かであり、ほとんどは自身の不明によるものですが、任命責任は免れません。きちんと身体検査はしているのですが、いろんなことが出て来ます。一層の綱紀粛正が必要でしょう。役所の不祥事も、続いています。役人出身の一人として、残念な限りです。役所のあるべき方向をきちんと示し、部下や後輩をきちんと叱れる官僚を育てていかなければなりません。

 第2次安倍政権を側で長く支えていただいたのは、閣僚等の皆さん、党役員の皆さん、官僚の皆さんらですが、いずれも人事が停滞していたことは指摘できると思います。各政権を通じて最初のメンバーがベストメンバーであることは多いのですが、人事の停滞は、組織の淀みを招きます。ここにも、人を切ることのできない安倍総理の優しさが表れています。しかし、人事を断行することにより、政権の求心力が強化されるのであって、適切な交代人事は必要であったと考えます。安倍総理にとっても、自民党全体にとっても残念だったことは、谷垣前総裁の引退です。安倍総理も、谷垣幹事長を本当に信頼していました。谷垣さんが御健康であれば、自民党の在り方は変わっていたかもしれません。


 今、新たな自民党総裁が選出され、新内閣総理大臣が任命されますが、言うまでもなく誰がその任についても大変なことでしょう。他の政治家と異なり、全てのポテンシャル(持っている能力)、全てのパフォーマンス(表現力)が試されることになります。得意分野などと言っていられません。そうした点から第2次安倍政権を振り返れば、安倍総理は、歴代総理に比べても、本当に良くやったと思います。浪人期間中にも相当に勉強し、総理になっても努力を続けていました。しかし、それを表に出さず、明るく強いリーダーシップを国民に世界に示してきました。病気での退陣は本当に残念ですが、体力が落ちると正しい判断に影響を及ぼします。国の安全保障を考えての潔い退陣であったと思います。どうかゆっくりと療養され、また元気に活躍する日の来ることを待ち望んでいます。


※ この論考は安倍総理在任中に執筆したものであり、職名等はその当時のものであることをお断りしておきます。

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(3月27日)

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礒崎陽輔